やうに他の女を愛してゐはしないか。その身に言つたやうなことを他の女に言つてゐはしないか。あの手がこの身を卷いたやうに他の女を卷いてゐはしないか。さう思ふと、ゐても立つてもゐられない焦立しさと不安さと物悲しさと心細さとが感じられた。さういふ時には窕子はその身を持てあつかひでもしたやうに、垣の傍に行つて竹藪に夕日のさし込むのを眺めたり、池に小さな魚の石につくやうになつて微かに動いてゐるのを覗いたり、またその不安と心細さに雜り合つて、もはや白河の關あたりまで行つたであらうと思はれる父親の一行のことをいろいろに思ひ浮べたりなどした。たまには昔の歌の友達――かういふ身の上になつてからは誰も來るものとてはなくなつたのに、その友達ばかりは捨てもせずにたづねて來て呉れるのであるが、その時には琴をかき鳴らしたり歌合をしたりしてのどかに一日を遊び暮した。
師走になると、都の街にも寒い風が吹いて、人の足並も凍つた地に響き、夜は店を明けて灯をつけてゐる家などはなかつた。その十日にかの女は親しい僧のゐるのをたよりに、母に伴れられて横川の彌勒講へと出かけた。
七
横川の中堂はさうした深い山の中であるにも拘らず、香の煙があたりに一杯に籠めるばかりに立靡き、參籠者はそろそろと山みちを傳ひ、岨を傳つて、そのありがたい御堂へと一齊につめかけた。壺裝束をして藺綾笠をかぶつた女達だの、杖をついてあの老人がよくやつて來たと思はれるやうな人達だの、さうかと思ふと、宮中からおつかはしの布施の携帶した頭中將の一行の仰々しい姿なども見えた。佛法と王法とがひとつになつて、この深い山の御堂にこの上もない有難さをひろげてゐるやうに見えた。
御堂の内には、僧が何十人となく兩側に列をなして立竝んでこ香烟の漲りわたつた、むつとするほど參籠者の呼吸の立ちこもつた、その奧には大きい小さい、中にも二三百目もあらうといふやうな赤く青く或は黄に彩色した※[#「臘」の「月」に変えて「虫」、第3水準1−91−71]燭が煌々と人の目を眩せしむるばかりの佛具の間に何本となく點されて、それがチラチラと言ふに言はれない壯嚴さをあたりに展げたばかりではなく、何年にも開かれたことがない立派な龕の扉が左右にはつと押し開かれて、その本尊の如來の額からは金光が赫々とあたりに輝きわたるかのやうに仰がれた。讀經の聲と共に何遍となく僧が
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