いふ、幾日も幾日も行つても盡きない濶い濶い野を頭に浮べたり、その野の果に青く布を敷いたやうに川が流れてゐて、そこに黄色い嘴をした鳥がゐるといふことを想像したり、さうかと思ふと、さうしたさびしい野に野盜がゐて、もしかしてそれがその父親の一行に何か害でも與へはせぬかと心配したり、その間には殿がやつて來て、わざとかの女をからかつて怒らせて見たり、また時にはかねて言つてゐたことが賓行されて、その西の對屋から堀川の邸近くのとある家に移轉して行つたりなどした。その新しい家には母が來て、『これは日あたりの好い家だ……。これでは冬知らずだ』などと言つて、兎にも角にもさういふ家に住まはれる身になつたかの女の幸福を喜んだりした。それにその新居の庭のさまが、その周圍を取廻いた築土の奧の方に竹藪があつてそれに夕日がさびしく當つたりするさまが、やつぱり細かくかの女の心に雜り合つた。
『もう父君は、東の國を通り越したでせうね』
何うかすると、かの女は物思はしさうにかう傍のものに言つたりした。さうかと言つて旅の人達のことばかりを常にその念頭に置いてゐるのでもなかつた。時には世間の噂なども靜かなその胸をかき亂した。何でもその噂では、殿にはいろいろなことがあるらしかつた。女子などもあちこちにあるといふことだ。現にある女のことではその兄上と爭つたりしてゐる。しかし來た時に持出してそれをきいて見ても、巧みにそれを打消してしらばくれてゐる。しらばくれないまでも笑つてゐる。そして『誰がゐたつて、これに越すものはない。このいとしさに越すものはない。大丈夫だよ。そんなに心づかひをしなくとも……。このやさしい美しい心を誰が他所にするものかね……』かう言つてやさしくかの女の涙をその手で拭いたりなどした。窕子はそれにわけなく引寄せられるといふわけではなかつたけれども、しかもさう言はれて見れば、それを信ぜずにはゐられなかつた。兎に角この身を思うて呉れさへすれば好い。縋り効のないものでさへなければ好い……。逢つた當座はたしかにさう思つて滿足してゐるのであるけれども、それが不思議にも一日來ず、二日來ず、三日來ないとなると、次第に何處からともなく不安が萠して來て、さう信じてゐたその身の愚さが繰返されると同時に、男の心の頼りなさが深く深く考へられて來るのであつた。その身がさういふ風に感ぜられてゐるだけそれだけ男はやつぱり同じ
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