、階段の下から此方へは出て來なかつたけれど、下司や僕や男達はずつと表まで行つて見送ることが出來たので、それで呉葉も通りまで出て見たのであつたが、見てゐると、多勢の人達に見送られたその一行の人達は、行縢をつけ、藁靴をはき、包みを負つたり雨具を持つたりして、一歩一歩河原の方へと遠ざかつて行くのであつた。呉葉は橋のほとりまで行つて、その家の殿の馬や雨具の向うに見えなくなるのを見送つて涙組ましい悲しい心持で家の方へと戻つて來た。それには少くともひと時ぐらゐの時間は經つた。それでも窕子は几帳のかげにつつ伏したまゝ身を起さうともしなかつた。
呉葉は急いで傍に行つた。
辛うじて頭をあげた窕子の顏は涙に泣きぬれてゐた。
『…………?』
呉葉は何と言つて好いかわからなかつた。
『父君は?』あとの言葉は涙に礙えられて窕子の口から出て來なかつた。
『もうお立ちになられました!』
『もはやお立ちに――』
さう言つたまゝまた引被ぐやうにして泣き伏した。
しかし何んな悲哀でもさういつまでも續いてはゐなかつた。暫く經つたあとでは、窕子は眼を赤くしながらも、そこに父親が書いて置いて行つた別れの歌を手に取り上げた。
そこにはかういふ歌が書いてあつた。
[#ここから3字下げ]
君をのみ
頼む旅なる心には
行く末遠く
おもほゆるかな
[#ここで字下げ終わり]
それはかの女へではなくて、堀川の殿へ寄せたものであるといふことが一目見ただけですぐわかつた。『殿ばかりが頼りだ。我儘な娘ですけども、何うか捨てずに行く末長く眼をかけてやつて下さい』たのみ甲斐もないやうな堀川の殿を頼んで、その可愛い娘をその手に托して、何うか無事であれ幸福であれと祈つてわかれ難い別れをわかれて、ひとり遠く旅立つて行つた父親の心が歴々とそこに指さゝれた。窕子はまた泣かずにはゐられなかつた。
その時誰か來た氣勢がしたと思ふと、妻戸がそつと明いて、狩衣姿の堀川の殿の莞爾した顏がひよつくりそこにあらはれた。
『もう立たれたさうぢやな……』
入つて來て、そこに呉葉の侍してゐるのを目にして、
『もう少し早う來て、見送りしたいと思うたが、つい殿上まで行かねばならぬ用事があつておくれた……』少し途切れて、『おゝさうか、呉葉は行つて來たか? 何處まで? 河原まで? それで無事に立たれたか』
『御無事で、御機嫌よく……』呉葉はかしこまつ
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