子は既にたゞならぬ身になつてゐたのである。

         五

 呉葉にはまだこゝに移つて來ない以前、家の殿が陸奧守に昇進して遠くへ旅立たなければならなくなつた時のさまがありありと眼に映つて見えた。泣いた窕子の顏がそこにある。この身も父君と共に陸奧に下らう。女の身とて行けぬことはよもあるまい。かうして玩弄ものになってゐるよりは、暫しなりとも都を離れて新しい生活に入る方が何のくらゐ好いかしれない。さうすればあの堀川の殿の心もこの身を離れて他の女子のもとに行くであらう。窕子はさうとはつきり言ひはしなかつたけれども、唯一の頼みとするその父君に別れることの悲しさ心細さに心が亂れ、またその行末の身のほどなども深く案じられて、それで一層さうした心になつたのであつた。それに、歌まくらに聞いた白河の關や安達の鬼塚や武隈の松などをも窕子は見たいと思つたのである。それは神無月の時雨が降る頃で、まだ向うの西の對にゐて、その窕子の居るところからは、裏の垣に烏瓜の赤いのなどが見えたり、彩ある小鳥の翅が樹の枝がくれに飛んだり下りたりするのがそれと指さゝれたりするほどだつたが、その窕子の願ひを押しとどめるためには、呉葉ばかりではない父君もまたその堀川の殿も何んなに口を酸くしてなだめたり慰めたりしたか知れないのであつた。『それではお前はこの身がこれまでに思ふてゐるのを何とも思はずに何うしてもそんなに遠くへ行くと言ふのか? 思ひとゞまつて呉れ! 何うぞ思ひとゞまつて呉れ! お前がゐなくなつては、この都も何もあつたものではない、それこそ業平の朝臣のやうに、お前を追うて東下りをせねばならぬほどに、な、これ、さう泣かずに、父君を快よう立たせて呉れ!』かう言つて堀川の殿は几帳のかげに身を隱した女君の衣の袖に何遍その顏を當てたか知れなかつた。
 父君も度々來てなだめた。『この身も伴れて行きたいけれど、女の身ではさうもならぬほどに、さう長いことではない、二とせか三とせ!』
 窕子はよく涙をこぽした。そのやうな氣の弱いうまれつきではなかつた筈なのに――誰れにも負けてゐることのきらひな質であつたのに――またしても涙に袖を濡らすのを呉葉は眼にした。『だつて、呉葉、この身はこれまで父君をのみ頼りにして來たのに……父君にさへ離れて、この身がひとりこの都にとどまらねばならぬのではないか? 笑はずに置いてくれ!』かう言
前へ 次へ
全107ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング