とが段々わかつて來た……。この心は何うなるのだらう。何う埋められるのだらう?』急にたまらなくなつたといふやうに窕子は衣の袖を顏に當てた。
『わるう御座いました。笑うたりなどしてわるう御座いました……』慌てゝ呉葉は言つた。
 窕子の欷歔げる聲が夕暮の空氣の中に微かに雜り合つた。
『そなたがわるいのぢやない。そなたがわるいのぢやない……』暫くしてから、やつと思ひ返したといふやうに窕子は衣の袖を顏から離した。
 暫くした後では、それとは違つて、今度は公の宮の中のことが主從の間に話されてゐた。きさいの宮のことだの、藤壺の女御のことだの、好者の大納言のことだの、つゞいては目ざましきものにいつも引合に出される唐土の楊[#「楊」は底本では「揚」]貴妃の話などがつぎつぎに出て行つた。后でなくてもさうまで深く帝王の心をつかむことが出來る話などが出た時には、窕子は深く考へずにはゐられなかつた。北の方とか后の宮とか言つても、それにばかり男の愛があつまるものではなくて、何んなはした女との仲にも戀さへ芽ぐめば純な深いものとならない限りでないことがそれからそれへと考へられて來た。古今集の中にある深草に住んでゐる女が、男が女に飽きて、もう來ないつもりで、『年を經て住み來しやどをいでゝいなばいとど深草野とやなりなん』と捨ぜりふ言つたのに對して、『野とならばうづらとなりて泣きをらん狩りにだにやは君は來ざらん』と言つてその眞心を示したので、男はそれに感じて再びそこに來るやうになつたといふ物語などもそこに繰返された。
『だからそれを言ふのよ。さういう眞心があれば好いのよ。男にしても、女にしても……。しかし今のこのみだらな世では、とてもさういふ心は男にも女にも望まれない。男はたゞ女をおもちやにしてゐる。美しくさへあれば好いと思うてゐる。いゝえ、その美しいのを玩弄しさへすれば好いと思うてゐる。それに對して、女は唯捨てられたまゝでだまつてをる。それは女の弱味で爲方がないと思うてをる。それが悲しいことゝは思はないか……。』こんなことを染々した調子で窕子は言つた。窕子はそのまごころを深く相手の心の中に打込みたいと思つてゐても、その相手が當世の時めき人で、女に對してもさうした深い考へを持つてゐないといふことをこの頃深く感じて來てゐた。身の内に漲りわたるその心を何うしたら好いか、それに窕子は朝に夕に惑つてゐた。
 窕
前へ 次へ
全107ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング