だつて、お前、何故この身はひとりを守つてゐるのに、男はさうでなくて好いといふのかえ?』
『そら、またいつものお話がはじまりました――』
呉葉はかう言つて笑ひ出した。
『そんなにこの身の言ふことが可笑しいかしら? そなただつて、いつかさう言つたではないか。都にゐなくとも好い。都の殿御に見える機會がなくとも好い。田舍の土の中に埋れても、思うた男子と二人だけで住まうて居ればそれで好い。女子はその男子だけを思ひ、その男子はこの身だけを思うて呉れたら、それでこの女としての願ひは足りる。何んなに賤しう暮しても、少しも苦しいとは思はない。かうそなたも言うたことがあるのではないか。何うしてそれが可笑しいのか?』
『そのやうなことを言うたこともあるにはありました』かう言つて呉葉はまた笑つて、『でも、そのやうなことはこの今の世には通りは致しはせぬもの……。この身とて狛のさとにでも住んで居れば、さういふことを考へられるかも知れませねど、とてもこの都では、そのやうなことは考へられは致しはせぬもの……』
『そなたはそれですましてをられるから仕合せだ……』
窕子はじつと深く悲哀に浸つたやうな心持で言つた。若さに別るゝ悲哀が今しも急に押し寄せて來たらしく、眼には一杯に涙がたまつた。
呉葉は笑つたりなどしたことを悔いるやうに、眞面目な顏をして急にだまつて了つた。
窕子の眼からはたうとう涙がこぼれて落ちた。
『…………』
『この身の心は誰も知つて呉れるものはない。父君にも、母君にも、この身の心はわからない。それはそなたにしても、父母にしても、この身に幸多かれと祈つて呉れる心はようわかる。それはありがたいと思うてをる。しかし、この心――この身の持つた心は誰にもわからない……』涙を溜めた眼は夜の星でもあるかのやうに美しくかゞやくやうに見えた。
『そのやうなことは――』
『そなただけは知つてゐて呉れると思つてゐたが、やはりそなたにも本當のことはわからなかつたのだ………。女子といふものは何うしてかうもてあそびものになるものやら! 女子といふものは罪が深うてとても男子とはひとつに言へないものだ。先の世からさうした魂を持つて生まれて來たものだ。かうしたことを佛の教はよう言うたが、あれはこの身は本當とは思はなかつた。愚なことを言ひをると思ふて居つたのだが、やはりさうでも言はなければならないのかしらといふこ
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