寄せられて行くのをまざまざと見た。勿論それは張りも悶えも苦しみも何もなしに、わけなくそれに引寄せられて行つたのではなかつた。その中には細かい心の悶えや、その身の若さ美しさの日毎に喪はれて行くことに對する苦しみや、權勢といふものに理由なしに踏みにじられて行くのに堪へ難くなやむ心や、時にはその美しさといふことだけをその武器にしてさうした權勢に對抗しようとするほどの心の張を見せたことなどもないではなかつたが、しかも男にその身を任せた上は、もはや何うにもならずに、次第にさうした積極的な心持から離れて來るやうな形になつて行くのを誰も見遁すものはなかつた。窕子の父母の眼にもはつきりとそれが映つた。同胞達も次第に堀川の邸にその身を近づけて行くことの出來るのを喜ぶやうな形になつて行つた。
西の對屋が手狹だといふので、堀川の裏のさゝやかな流れに臨んだ世離れた閑靜な邸――それも通りからもさう大して離れてゐない邸に、その年の師走近く、寒い風が北山から雪を齎して來る頃に移轉して行つが、その頃には、窕子の心も全く崩折れて、父母のためまたは同胞のため、といふばかりではなしに、男の心にその身を、その心を大方任せるやうになつてゐるのを誰も彼も見た。
しかし幸福の唯中にその身が浸されてゐるとばかり思はれてゐる時、綾や錦や美しい調度に包まれて、ざれ言雜りの歌の贈答や、輕いお互同士の戀の玩弄や、他の目にも餘るやうな甘たるい抱擁や、身も心も溶けるばかりの繪のやうな光景や、さうしたものばかりがそのあたりに想像されてゐる時、窕子と呉葉との間にかうした次のやうな對話が取交はされてゐようなどとは誰も想像することが出來なかつた。
『何うしてそんなことを仰有いますのですか?』
『だつて、お前……』
『世間では、あなたほどお仕合せな方はないと申してをります。それは北の方にはおなりあそばされない……。それは圓滿具足した貴い器の一つのきずと申せば疵で御座いますけれど、かしこいあたりでもそれは止むを得ないことでは御座りませぬか。それは生れで御座いますもの。何うにもならないもので御座いますもの……。あなたのお身にしても、關白どのの家にお生れなされさへすれば、北の方にでも何にでも心のまゝであらせらるゝでせうけれども……それはしかし何うにもならないことで御座いますもの……。それをいくら仰有られてもむだで御座りはしませぬか』
『
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