身の嫉妬に近い心持も起つて來ないことはなかつたのであるが、それも向けやうに由つては、反感にならずにはゐられないやうな質のものであつたが、呉葉はそれをすぐ奉仕の感情の方へと持つて行つてくつ付けて了つた。呉葉は窕子のために喜びの感情と祝賀の感情とを一緒にしたものをそこに漲らせた。『それときいたら誰だつて羨ましく思はないものはないでせう。堀川の殿が此處に! あの堀川の殿が。京の姫達でさうした好運に附かれたのは御身ばかり……』かう言ふ風に呉葉はその感情をそこに露骨に打出すやうにして言つた。窕子はじつとしてゐたが、急に堪らなくなつたと言ふやうに、さうした侍女の祝賀の言葉の驟雨の中にも悲しい女の身の悲哀を深く感ぜずにはゐられないといふやうにその顏に衣の袖を押し當てゝ身もだえして泣いた。呉葉もしたゝかに泣いた。

         四

 呉葉が始めてその堀川の殿を目にしたのは、それからいくらも日數も經たないほどのことだつた。かの女はそこに肥えてはゐるけれど下品でない、眼尻の下つた、やさしい眼附をした、鼻の丸味勝な、口の大きな莞爾したその人の顏を見出した。女の好くといふほどの顏ではなかつたけれども――ことに女君の美貌と比べてはとてもしつくり合ひさうにも見えない種類の風采であつたけれども、それでも鷹揚な、靜かな態度の中に何處かに生れついて持つた威が働いてゐて、見ようによつては、好く思はれないこともないほどの器量を持つてゐた。その人はにこにこしながら、他人でないやうにやさしい言葉を呉葉にかけた。そしてその次にやつて來た時には、高價な蒔繪の香奩を手づからそのかづけものにしたりなどした。
 美貌では京でも名高く、殿上人の姫達の中にもそれほどの美しさはないとまで言はれ、その上に和歌にすぐれて、萬葉や古今の女の作者達にも一歩もひけを取らないとまで言はれた窕子の戀も、他で思つたほど思ひあがつたものではなく、やはり普通の多くの女達と同じやうに靜かに押移つて行くのを人々は見た。やはり女は女だけしかない。何んなに學問があつても、何んなに美しく生れ附いても、また何んなに怜悧で且つ聰明であつても、男と一緒にゐるやうになつては、やはり女だけのことしかない。これは世間がさう思つたばかりでなく、平生常にその傍に侍してゐる呉葉にもさういふ風に見えることを何うすることも出來なかつた。呉葉は次第に女の心が男の方に引
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