第に夜になれば夜になつたで、星あかりのやうなものが微かにも地上に及んでゐると見えて、さつき見た時よりも、童姿の供のそこに待つてゐる輪郭がそれとはつきりするやうになつた。
 突然、呉葉の前に立つた一つの黒い影があつた。
『誰ぢや?』
 その聲でそれは窕子の兄の攝津介であることがわかつた。
『…………』
『お、呉葉か……。それにしても、このやうなところに何をしてをる?』
 手でその高い聲を押へるやうにして、
『殿が……』
『何と……?』呉葉の指さす方向に眼を移しながら、『殿が……あの堀川の殿が……。それはまことか……いつ? もうさつきにか? 今か?』その聲は壓し潰されたやうに低くなつた。
 攝津介も默つてじつと立つてゐたが、
『別に窕子はそなたを呼びはせざつたか?』
『別に……』
『それなら、それで好い……。こんなところに立つて居なくとも好い。こつちに來やれ。目出たいことを母者に知らせて喜ばねばならぬ……』
 攝津介はそのまゝかの女を伴うて向こうに行つて了しまつたので、呉葉はその後のことを知らなかつた。それから一時ほどして呉葉が入つていつた時には、窕子はいつものやうに几帳のかげにその身を置いたままで、あたりには誰もゐず、結燈臺の灯が微かに隙間洩る夜風に瞬いてゐるばかりだつた。呉葉は見ぬようにしてじつと窕子を見詰めた。窕子も眼を下に落としたまゝで深い深い物思ひに沈んでゐた。暫くそのまゝで經つた。
 最初に窕子は言つた。
『何處に行つていたの? お前……?』
 しかもその聲は微かで、眼は同じところを見たまゝであつた。
『向こうに居りました……』
『………』窕子は何か言はうとしたが、何う言つて好いかわからないといふやうに默つて了つた。
『何か御用でしたか?』
『別に……』
 かう言つたが、急に、『この身は困つた――』
 しかしその表情はそれほど困つたとも見えはしなかつた。
『何うかなさいましたか?』
『…………』
『え?』
『今、思ひもかけぬ客人があって……』
『客人が?』
 呉葉はわざとしらばくれるようにして言つた。
『困つた、此身は?』
『客人はどなたで御座いましたか?』
『そなたの好きな堀川どの……』
『え!』
 呉葉はわざと驚いたやうに見せかけて聲を立てた。
 窕子が物思ひに沈んでゐたのは、悲しい心に屬するものではないといふことが次第に呉葉にも飮み込めて來た。同じ性の
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