るく點されてあつた。そこは侍女の常葉のゐるところだつた。
 輕い裳づれの音がしたと思ふと、いきなりそこに登子がその美しい顏を出した。
『まア、よく……』
『まア――』
 二つの美しい聲がそこに取り交はされた。
 かれ等はすぐ奧の明るい室の方へと行つた。
『本當に、どんなに心配したかわからないのでございますよ』
『それでもよくこんなところがわかりましたね』
『家がすぐそこなものですから……』
『あゝさう、それでわかつたの? それでいつから來てるの?』
『忌違へに來たのですけども、この雨で、とても………』
『ほんに、此雨は……』
 短かい言葉しか二人とも話せないやうな時間が暫しつゞいた。
 窕子は思ひ做しか此間逢つた時とはぐつとやつれて元氣がなくなつてゐる登子を見た。
『お痩せになりましたねえ?』
『さう……』
 登子は微かに笑つた。
 相對してゐる中に、いろいろなことが次第に飮み込めて來た。式部卿の宮の死は、さうだとは登子は決して言はなかつたけれども、しかし藥を仰いでの死であるといふことはそれと察しられた。また登子がかうして他に知られないやうに廢宅に身を忍ばせてゐるといふことは、やつぱり世間でも言ひ窕子も想像してゐたやうに、内裏からの迎へを一時避けなければならないやうな位置に登子が身を置いてゐるからであるといふことがわかつた。窕子は何う慰めて好いかわからないやうな氣がした。
『思ふまゝにはならぬもので……』
 言ひかけて止した登子の眼には涙が光つた。
『…………』
『でも、かういふさだめでござらうほどにのう!』
 言ひかけて、急にその時のことを再びまざまざとそこに思ひ出したやうに、『でも窕子どの、あはれと[#「あはれと」は底本では「あはれとと」]思つて下さい……。あの時にもお目にかゝることが出來ず、はふりの日にも――』
『ことはりでござります、ことはりでございます』
 窕子はかう早口に言ふより他爲方がなかつた。
『それはのう……』登子は裳の下から袖を引出して目に當てたが、暫くしてから、『よう、今まで生きてゐたとこの身も思つてゐるのです、腑甲斐なき此身、生きてゐたとて何うすることも出來ない此身……なぜ、此身はともかくもならなかつたのかしら?』
『まア、そのやうには――』
『窕子どの、ほんたうに何遍死なうと思つたか知れない……。一度はすでのこと刄をこの咽喉に當てようとした
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