四方に過ぎぬ田池の有つた事を。然るに其田池の前には、今一群の人が黒く影をあつめて居て、その傍には根本家と記した高張提燈《たかはりぢやうちん》が、月が冴々《さえ/″\》しく満面に照り渡つて居るにも拘《かゝ》はらず、極めて朧《おぼろ》げに立てられてあるが、自分はそれと聞いて、驚いて、其傍に駆付《かけつ》けて、その悲惨なる光景を見た時は、果して何んな感に撲《う》たれたであらうか。諸君、其三尺四方の溝《どぶ》のやうな田池の中には、先刻《さつき》大酔して人に扶《たす》けられて戸外へ出たかの藤田重右衛門が、殆ど池の広さ一杯に、髪を乱《み》だし、顔を打伏《うつぶ》して、丸で、犬でも死んだやうになつて溺《おぼ》れて居るではないか。
「一体何うしたんです」
自分は激して訊《たづ》ねた。
「何アに、先生、えら酔殺《よつぱらつ》たもんだで、遂《つ》ひ、陥《はま》り込んだだア」
と其中の一人が答へた。
「何故《なぜ》揚げて遣らなかつた!」
と再び自分は問うた。
誰も答へるものが無い。
けれどこれは訊ねる必要があるか。と自分は直ぐ思つたので、其儘押黙つて、そつとその憐れな死骸に見入つた。月は明らかに其田池を照して、溺れた人の髪の散乱せるあたりには、微かな漣《さざなみ》が、きら/\と美しく其光に燦《きら》めいて居る。一間と離れた後の草叢《くさむら》には、鈴虫やら、松虫やらが、この良夜に、言ひ知らず楽しげなる好音を奏《かな》でてゐる。人の世にはこんな悲惨な事があるとは、夢にも知らぬらしい山の黒い影!
「あゝ、これが、この重右衛門の最後か」
と再び思つた自分の胸には、何故か形容せられぬ悲しい同情の涙が鎧《よろひ》に立つ矢の蝟毛《ゐまう》の如く簇々《むら/\》と烈しく強く集つて来た。
で、自分は猶《なほ》少時《しばし》其池の畔《ほとり》を去らなかつた。
十一
「人間は完全に自然を発展すれば、必ずその最後は悲劇に終る。則《すなは》ち自然その者は到底《たうてい》現世の義理人情に触着《しよくちやく》せずには終らぬ。さすれば自然その者は、遂にこの世に於《おい》て不自然と化したのか」
と自分は独語した。
「六千年来の歴史、習慣。これが第二の自然を作るに於て、非常に有力である。社会はこの歴史を有するが為めに、時によく自然を屈服し、よく自然を潤色する。けれど自然は果して六千年の歴史の前に永久《とこしへ》に降伏し終るであらうか」
「或は謂《い》ふかも知れぬ。これ自然の屈伏にあらず、これ自然の改良であると。けれど人間は浅薄なる智と、薄弱なる意とを以て、如何《いか》なるところにまで自然を改良し得たりとするか」
「神あり、理想あり、然れどもこれ皆自然より小なり。主義あり、空想あり、然れども皆自然より大ならず。何を以てかくいふと問ふ者には、自分は箇人《こじん》の先天的解剖をすゝめようと思ふ」
少時《しばらく》考へて後、
「重右衛門の最期《さいご》もつまりはこれに帰するのではあるまいか。かれは自分の思ふ儘《まゝ》、自分の欲する儘、則ち性能の命令通りに一生を渡つて来た。もしかれが、先天的に自我一方の性質を持つて生れて来ず、又先天的にその不具の体格を持つて生れて来なかつたならば、それこそ好く長い間の人生の歴史と習慣とを守り得て、放恣《はうし》なる自然の発展を人に示さなくつても済むだのであらうが、悲む可《べ》し、かれはこの世に生れながら、この世の歴史習慣と相容るゝ能はざる性格と体とを有《も》つて居た」
「殊に、かれは自然の発展の最も多かるべき筈《はず》にして、しかも歴史習慣を太甚《はなはだ》しく重んずる山中の村――この故郷を離るゝ事が出来ぬ運命を有して居た」
と思ふと、自分が東京に居て、山中の村の平和を思ひ、山中の境の自然を慕つたその愚かさが分明《はつきり》自分の脳に顕《あら》はれて来て、山は依然として太古、水は依然として不朽、それに対して、人間は僅《わづ》か六千年の短き間にいかにその自然の面影《おもかげ》を失ひつゝあるかをつく/″\嘆ぜずには居られなかつた。
「けれど‥‥‥」
と少時《しばらく》して、
「けれど重右衛門に対する村人の最後の手段、これとて人間の所謂《いはゆる》不正、不徳、進んでは罪悪と称すべきものの中に加へられぬ心地するは、果して何故であらう。自然……これも村人の心底から露骨にあらはれた自然の発展だからではあるまいか」
此時ゆくりなく自分の眼前に、その沈黙した意味深い一座の光景が電光《いなづま》の如く顕《あらは》れて消えた。続いて夜の光景、暁の光景、ことに、それと聞いて飛んで来た娘つ子の驚愕《おどろき》。
「爺様《とつさん》、嘸《さ》ぞ無念だつたべい。この仇《かたき》ア、己《おら》ア、屹度《きつと》取つて遣るだアから」
と怪しげなる声を放つて、其死体に取附いて泣いた一場の悲劇!
其鋭い声が今も猶耳に聞える。
午後になつて、漸《やうや》く長野から判事、検事、などが、警察官と一緒に遺つて来て臨検したが、その溺死した田池《たねけ》がいかにも狭く小さいので、いかに酔つたからとて、こんな所で独《ひと》りで溺れるといふ訳は無い。これには何か原因があるであらうと、中々事情が難かしくなつて、其時傍に居た二三人は、事に寄ると長野まで出なければならぬかも知れぬといふ有様。それにも拘らず溺死者の死体は外に怪しい箇処《ところ》も無いので、其儘受取人として名告《なの》つて出たかの娘つ子に下渡《さげわた》された。
半日水中に浸けてあつたので、顔は水膨《みづぶく》れに気味悪くふくれ、眼は凄《すさま》じく一所を見つめ、鼻洟《はな》は半《なかば》開いた口に垂れ込み、だらりと大いなる睾丸《きんたま》をぶら下げたるその容体《ていたらく》、自分は思はず両手に顔を掩《おほ》つたのであつた。
「それにしても、娘《あま》つ子《つ》はあの死骸を何うしたであらう。村では、あの娘つ子の手に其死骸のある中は、寺には決して葬らせぬと言つて居つたが……」
かう思つて自分は戸外《おもて》を見た。昨夜の月に似もやらぬ、今日は朝より曇り勝にて、今降り出すか降り出すかと危んで居たが、見ると既に雨になつて、打渡す深緑は悉《こと/″\》く湿《うるほ》ひ、灰色の雲は低く向ひの山の半腹までかゝつて、夏の雨には似つかぬ、しよぼ/\と烟《けぶ》るがごとき糠雨《ぬかあめ》の侘《わび》しさは譬《たと》へやうが無い。
其処へ根本が不意に入つて来た。
検死事件で一寸手離されず、彼方此方《あつちこつち》へと駈走つて居たが、漸《やうや》く何うにかなりさうになつたので、一先《ひとまづ》体を休めに帰つて来たとの事であつた。
「何うだね?」
と聞くと、
「何アに、其様《そんな》に心配した程の事は無えでごす。警官も奴の悪党の事は知つて居るだアで、内々は道理《もつとも》だと承知してるでごすが、其処は職掌で、さう手軽く済ませる訳にも行かぬと見えて、それで彼様《あん》な事を言つたんですア」
「それで死骸は何うしたね」
「重右衛門のかね。あの娘《あま》つ子《つ》が引取つて行つたけれど、村では誰も構ひ手が無し、遠い親類筋のものは少しはあるが、皆な村を憚《はゞか》つて、世話を為《し》ようと言ふものが無えので、娘《あま》つ子《つ》非常に困つて居たといふ事です……。けれど、今途中で聞くと、娘つ子奴、一人で、その死骸を背負《しよ》つて、其小屋の裏山にのぼくつて、小屋の根太《ねだ》やら、扉やらを打破《ぶちこは》して、火葬にしてるといふ事だが……此処から烟《けむ》位見えるかも知れねえ」
と言つて向ふを見渡した。
注意されて見ると、成程、三峯の下の小高い丘の深緑の上には、糠雨《ぬかあめ》のおぼつかなき髣髴《はうふつ》の中に、一道の薄い烟が極めて絶え/″\に靡《なび》いて居て、それが東から吹く風に西へ西へと吹寄せられて、忽地《たちまち》雲に交つて了ふ。
「あれが、左様《さう》です」
と平気で友は教へた。
それが村で持余された重右衛門の亡骸《なきがら》を焼く烟かと思ふと、自分は無限の悲感に打れて、殆ど涙も零《お》つるばかりに同情を濺《そゝ》がずには居られなかつた。「死はいかなる敵をも和睦《わぼく》させると言ふではないか。であるのに、死んだ後までも猶《なほ》その死骸を葬るのを拒むとは、何たる情ない心であらう。そのあはれなる自然児をして、小屋の扉を破り、小屋の根太《ねだ》を壊して、その夫の死骸を焼く材料を作らせるとは、何たる悲しい何たる情ない事であらう」
自分の眼の前には、その獣の如き自然児が、涙を揮《ふる》つて、その死骸を焼いて居る光景が分明《はつきり》見える。下には村、かれ等二人が敵として戦つた村が横《よこたは》つて居るが、かの娘は果して何んな感を抱いてこの村を見下して居るであらうか。
「けれど重右衛門の身に取つては、寧《むし》ろこの少女《をとめ》の手――宇宙に唯一人の同情者なるこの自然児の手に親しく火葬せらるゝのが何んなに本意であるか知れぬ。否、これに増《まさ》る導師は恐らく求めても他に在《あ》るまい」
「村の人々、無情なる村の人々、死しても猶《なほ》和睦《わぼく》する事を敢《あへ》てせぬ程の冷《ひやゝ》かなる村の人々の心! この冷かなる心に向つて、重右衛門の霊は何うして和睦せられよう。さればその永久《とこしへ》に和睦せられざる村人の寺に穏かに葬られて眠らんよりは、寧《むし》ろそのやさしき自然の儘《まゝ》なる少女の手に――」
暗涙が胸も狭しと集つて来た。
「自然児は到底《たうてい》この濁つた世には容《い》られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備へ、自然の心を完全に有せる者は禍《わざはひ》なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業《わざ》もなく、徒《いたづ》らに敗績《はいせき》して死んで了ふであらうか」
「否、否、否、――」
「敗績して死ぬ! これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績は恰《あたか》も武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有しては居るまいか、無限の悲壮を顕《あら》はしては居るまいか、この人生に無限の反省を請求しては居るまいか」
自分は深く思ひ入つた。
少時《しばらく》してから、
「けれど、この自然児! このあはれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽して居るのだ! 葬る人も無く、獣のやうに死んで了つても、それでも重右衛門の一生は徒爾《いたづら》ではない!」
と心に叫んだ。
何時《いつ》去つたか、傍には既に友は居らぬ。
戸外の雨はいよ/\侘《わび》しく、雲霧は愁《うれひ》の影の如くさびしくこの天地に充《み》ち渡つた。丘の上の悲しい煙は、殆ど消ゆるかと思はるゝばかりに微かに、微かに靡《なび》いて居るが、村ではこれに対して一人も同情する者が無いと思ふと、自分は又|簇々《むら/\》と涙を催した。
あゝその雨中の煙! 自分は何うしてこの光景を忘るゝ事が出来よう。
十二
否――
諸君、自分は其夜更に驚くべく忘るべからざる光景に接したのである。自分は自然の力、自然の意のかほどまで強く凄《すさま》じいものであらうとは夢にも思ひ懸けなかつた。其夜自分は早くから臥床《ふしど》に入つたが、放火の主犯者が死んで了つたといふ考へと、連夜眠らなかつた疲労《つかれ》とは苦もなく自分を華胥《くわしよ》に誘つて、自分は殆ど魂魄《たましひ》を失ふばかりに熟睡して了つた。熟睡、熟睡、今少し自分が眼覚めずに居つたなら自分は恐らく全く黒焼に成つたであらう。自分の眼覚めた時には、既に炎々たる火が全室に満ち渡つて、黒煙が一寸先も見えぬ程に這《は》つて居た。自分は驚いて、慌《あわ》てて、寝衣《ねまき》の儘、前の雨戸を烈しく蹴つたが、幸《さいはひ》にも閾《しきゐ》の溝《みぞ》が浅い田舎家《ゐなかや》の戸は忽地《たちまち》外《はづ》れて、自分は一簇《いちぞく》の黒煙と共に戸外《お
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