、只々《たゞ/\》その成行を傍観して居た。
昨夜と均《ひと》しく、月は水の如く、大空に漂つて、山の影はくつきりと黒く、五六歩前の叢《くさむら》にはまだ虫の鳴く音が我は顔に聞えて居る。その寂《しづ》かな村落にもく/\と黒く黄《きいろ》い烟《けむ》が立昇つて、ばち/\と木材の燃え出す音! 続いて、寺の鐘、半鐘の乱打、人の叫ぶ声、人の走る足音!
村はやがて鼎《かなへ》の沸《わ》くやうに騒ぎ出した。
十
母屋《おもや》の大広間で恐しく鋭い尖声《とがりごゑ》が為たと思ふと、
「何だと……何と吐《ぬ》かした? この藤田重右衛門に……」
と叫んだ者がある。
自分の傍に来て居た友は、
「重右衛門が来て居る! 自分で火を点《つ》けて置いて、それで知らん顔で、手伝酒を食《くら》つてるとは図太いにも程がある」
と言つた。
火は幸《さいはひ》にも根本の母屋には移らずに下の小い家屋《いへ》一軒で、兎に角首尾よく鎮火したので、手伝ひに来て呉れた村の人々、喞筒《ポンプ》の水にずぶ濡《ぬ》れになつた村の若者、それから遠くから聞き付けて見舞に来て呉れた縁者などを引留めて、村に慣例《しきたり》の手伝酒を振舞つて居るところであるが、その十五畳の大広間には順序次第もなく、荒くれた男がずらりと並んで、親椀で酒を蒙《かぶ》つて居るものもあれば、茶碗でぐび/\遺つて居る者もある。さうかと思ふと、さも/\腹が空《す》いて仕方が無いと言はぬばかりに一生懸命に飯を茶漬にして掻込んで居るもの、胡坐《あぐら》を掻いて烟草《たばこ》をすぱり/\遣つて御座るもの、自分は今少し前、一寸《ちよつと》其席を覗《のぞ》いて見たが、それは/\何とも形容する事の出来ぬばかりの殺風景で、何だか鬼共の集り合つた席では無いかと疑はれるのであつた。いづれも火の母屋《おもや》に移らぬ事を祝しては居るが、連夜の騒動に、夜は大分眠らぬ疲労《つかれ》と、烈しく激昂《げきかう》した一種の殺気とが加はつて、何《ど》の顔を見ても、不穏な落付かぬ凄《すご》い色を帯びて居らぬものは、一人も無かつた。
それが、自分が覗《のぞ》いてから、大方一時間にもなるのであるから、酒も次第にその一座に廻つたと覚しく、恐ろしく騒ぐ気勢《けはひ》が其次の間に満ち渡つた。
「来てるのかね?」
と自分は友の言葉を聞いて、すぐ訊《たづ》ねた。
「来てるですとも……奴ア、これが楽みで、この手伝酒を飲むのが半分目的で火をつけるのですア」
暫くすると、
「何だと、この重右衛門が何うしたと……この重右衛門が……」
といふ恐ろしく尖《とが》つた叫声が、その次の大広間から聞える。
「先生……また酔つたナ」
と友は言つた。
次の間で争ふ声!
「何《なあ》に、貴様が火を放《つ》けると言つたんぢやねえ。貴様が火を放けようと、放けまいと、それにやちやんと、政府《おかみ》といふものがある。貴様も一度は、これで政府《おかみ》の厄介に為つた事が有るぢやねえか」
かう言つたのは錆《さ》びのある太い声である。
「何だと、……己《おれ》が政府《おかみ》の厄介に為らうが為るまいが、何も奴等《うぬら》の知つた事つちや無《ね》えだ。何が……この村の奴等……(少時《しばし》途絶えて)この藤田重右衛門に手向ひするものは一人もあるめい。かう見えても、この藤田重右衛門は……」
と腕でも捲《まく》つたらしい。
「何も貴様が豪《えら》くねえと言ひやしねえだア、貴様のやうな豪い奴が、この村に居るから困るつて言ふんだ」
「何が困る……困るのは当り前だ。己がナ、この藤田重右衛門がナ、態々《わざ/\》困るやうにして遣るんだ」
非常に酔つて居るものと見える。
「酔客《よつぱらひ》を相手にしたつて、仕方が無えから、よさつせい」
と留める声がする。
暫時《しばし》沈黙《だんまり》。
「だが、重右衛門ナア、貴様も此村で生れた人間ぢや無えか、それだアに、此様《こんな》に皆々《みんな》に爪弾《つまはじき》されて……悪い事べい為て居て、それで寝覚《ねざめ》が好いだか」
と言つたのは、前のとは違つた、稍《やゝ》老人らしい口吻《くちぶり》。
「勝手に爪弾《つまはじき》しやアがれ、この重右衛門様はナ、奴等《うぬら》のやうなものに相手に為《さ》れねえでも……ねつから困らねえだア……べら棒め、根本三之助などと威張りやアがつて元ア、賽銭箱《さいせんばこ》から一文二文盗みやがつたぢやねえだか」
「撲《なぐ》つて了《しま》へ」
と傍《かたはら》から憤怒に堪へぬといふやうな血気の若者の叫喚《さけび》が聞えた。
「撲れ! 撲れ!」
「取占《とつち》めて了へ」
と彼方《あつち》此方《こつち》から声が懸る。
「何だ、撲《なぐ》れ? と。こいつは面白れえだ。この重右衛門を撲るものがあるなら撲つて見ろ!」
と言ふと、ばら/\と人が撲《う》ちに蒐《かゝ》つた様な気勢《けはひ》が為たので、自分は友の留めるのをも振り解《ほど》いて、急いで次の間の、少し戸の明いて居る処へ行つて、そつと覗いた。いづれも其方《そつち》にのみ気を取られて居るから、自分の其処に行つたのに誰も気の付く者は無い。自分の眼には先《まづ》烟《けむり》の籠《こも》つた、厭《いや》に蒸熱《むしあつ》い空気を透《とほ》して、薄暗い古風な大洋燈《おほランプ》の下に、一場の凄《すさま》じい光景が幻影《まぼろし》の如く映つたので、中央の柱の傍に座を占めて居る一人の中老漢《ちゆうおやぢ》に、今しも三人の若者が眼を瞋《いか》らし、拳《こぶし》を固めて、勢《いきほひ》猛《まう》に打つて蒐《かゝ》らうとして居るのを、傍の老人が頻《しき》りにこれを遮《さへぎ》つて居るところであつた。この中老漢、身には殆ど断々《きれ/″\》になつた白地の浴衣《ゆかた》を着、髪を蓬《おどろ》のやうに振乱し、恐しい毛臑《けずね》を頓着せずに露《あら》はして居るが、これが則《すなは》ち自分の始めて見た藤田重右衛門で、その眼を瞋《いか》らした赤い顔には、まことに凄じい罪悪と自暴自棄との影が宿つて、其半生の悲惨なる歴史の跡が一々その陰険な皺《しわ》の中に織り込まれて居るやうに思はれる。自分は平生《へいぜい》誰でも顔の中に其人の生涯《しやうがい》が顕《あらは》れて見えると信じて居る一人で、悲惨な歴史の織り込まれた顔を見る程心を動かす事は無いのであるが、自分はこの重右衛門の顔ほど悲惨極まる顔を見た事は無いとすぐ思つた。稍《やゝ》老いた顔の肉は太《いた》く落ちて、鋭い眼の光の中に無限の悲しい影を宿しながら、じつと今打ちに蒐《かゝ》らうとした若者の顔を睨《にら》んだ形状《かたち》は、丸で餓《う》ゑた獣の人に飛蒐《とびかゝ》らうと気構へて居るのと少しも変つた所は無い。
「酔客《よつぱらひ》を相手にしたつて仕方が無えだ! 廃《よ》さつせい、廃さつせい!」
と老人は若者を抑へた。
「撲《なぐ》るとは、面白《おもしれ》いだ、この藤田重右衛門を撲れるなら、撲つて見ろ、奴等《うぬら》のやうな青二才とは」
と果して腕を捲《まく》つて、体をくるりと其方へ回した。
「管《かま》はんで置くと、好い気に為《な》るだア。此奴の為めに、村中大騒を遣つて、夜も碌々《ろく/\》寝られねえに、酒を食《くら》はせて、勝手な事を言はせて置くつて言ふ法は無《ね》えだ。駐在所で意気地が無くつて、何うする事も出来ねえけりや、村で成敗《せいばい》するより仕方が無えだ。爺《とつ》さん退《ど》かつせい、放さつせい」と二十一二の体の肥つた、血気の若者は、取られた袂《たもと》を振放つて、いきなり、重右衛門の横面《よこつら》を烈しく撲つた。
「此奴《こいつ》!」
と言つて、重右衛門は立上つたが、其儘《そのまゝ》その若者に武者振り付いた。若者は何のと金剛力を出したが、流石《さすが》は若者の元気に忽地《たちまち》重右衛門は組伏せられ、火のごとき鉄拳《てつけん》は霰《あられ》とばかりその面上頭上に落下するのであつた。
見兼ねて、老人が五六人寄つて来て、兎に角この組討は引分けられたが、重右衛門は鉄拳を食ひし身の、いつかなこの仲裁を承知せず、よろ/\と身体《からだ》をよろめかしながら、猶《なほ》其相手に喰つて蒐《かゝ》らうとするので、相手の若者は一先《ひとまづ》其儘次の間へと追遣られた。
「おい、人を撲《なぐ》らせて、相手を引込ませるつて言ふ法は何所《どこ》にあるだ。おい、こら、相手を出せ、出さねえだか」
と重右衛門は烈しく咆哮《はうかう》した。
今出すから、まア一先《ひとまづ》坐んなさいと和《なだ》められて、兎に角再び席に就《つ》いたが、前の酒を一息に仰《あふ》つて、
「おい、出さねいだか」
と又叫んだ。
相手に為《す》るものが無いので、少時《しばし》頭を低《た》れて黙つて居たが、ふと思出したやうに、
「おい出さんか。根本三之助! 三之助は居ないか」
と云つて、更に又、
「酒だ! 酒だ! 酒を出せ」
と大声で怒鳴《どな》つた。
云ふが儘に、酒が運んで来られたので、今|撲《な》ぐられた憤怒《いかり》は殆ど全く忘れたやうに、余念なく酒を湯呑茶椀で仰《あふ》り始めた。かうなつて、構はずに置いては、始末にいけぬと誰も知つて居るので、世話役の一人が立上つて、
「重右衛門! もう沢山《たくさん》だから帰らうではねえか、余り飲んでは体に毒だアで……」
と其傍に行つた。
「体に毒だと……」首をぐたりとして、「体に毒だアでと、あんでも好いだ。帰るなら奴等《うぬら》帰れ。この藤田重右衛門は、これから、根本三之助と」
舌ももう廻らぬ様子。
「まア、話ア話で、後で沢山云ふが好いだ。こんなに意気地なく酔つて居ながら、帰らねえとは、余り押が強過ぎるぢやねえだか」
と世話役は、其儘両手を引張つて、強《し》ひてこの酔漢を立上らせようとした。けれど大磐石《だいばんじやく》の如く腰を据《す》ゑた儘、更に体を動かさうとも為ないので、仕方がなく、傍の二三人に助勢させて、無理遣りに其席から引摺上《ひきずりあ》げた。
「何|為《し》やがる」
と重右衛門は引摺られながら、後の男を蹴らうと為た。が、夥《おびただ》しく酔つて居るので、足の力に緊《しま》りが無く、却《かへ》つて自分が膳や椀の上に地響して※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れた。
「おい、確《しつか》りしろ」
と世話役は叫んで、倒れたまゝ愈《いよ/\》起きまじとする重右衛門を殆ど五人掛りにて辛くも抱上げ、猶《なほ》ぐづ/\に埋窟《りくつ》を云ひ懸くるにも頓着せずに、Xの字にその大広間をよろめきながら、遂《つひ》に戸外《おもて》へと伴《つ》れ出した。
一室は俄《には》かに水を打つたやうに静かになつた。今しも其一座の人の頭脳《あたま》には、云ひ合さねど、いづれも同じ念が往来して居るので、あの重右衛門、あの乱暴な重右衛門さへ居なければ、村はとこしへに平和に、財産、家屋も安全であるのに、あの重右衝門が居るばかりで、この村始まつて無いほどの今度の騒動《さわぎ》。
いつそ……
と誰も皆思つたと覚しく、一座の人々は皆意味有り気に眼を見合せた。
あゝこの一瞬!
自分はこの沈黙の一座の中に明かに恐るべく忌《い》むべく悲しむべき一種の暗潮の極めて急速に走りつゝあるのを感じたのである。
一座は再び眼を見合せた。
「それ!」
と大黒柱を後に坐つて居た世話役の一人が、急に顎《あご》で命令したと思ふと、大戸に近く座を占めた四五人の若者が、何事か非常なる事件でも起つたやうに、ばら/\と戸外《おもて》へ一散に飛び出した。
* * *
二十分後の光景。
自分は殆《ほとん》ど想像するに堪へぬのである。
諸君は御存じであらう。自分が始めてこの根本家を尋ねた時、妻君が頻《しき》りに、鋤《すき》、鍬《くは》等を洗つて居た田池《たねけ》――其周囲には河骨《かうほね》、撫子《なでしこ》などが美しくその婉《しを》らしい影を涵《ひた》して居た纔《わづ》か三尺
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