私なども経験があるが、散々村の遊び場所で騒ぎ散して、さてそれから其処に集つて居る若者の総《すべ》ての懐中を改めて、これなれば沢山《たくさん》となると、もう大分夜が更《ふ》け渡つて居るにも拘《かゝは》らず、其処から三里もある湯田中《ゆだなか》の遊廓へと押懸けて行く。其一群の中には、屹度《きつと》今夜が始めて……といふ初陣《うひぢん》の者が一人は居るので、それを挑《おだ》てたり、それを戯《からか》つたり、散々|飜弄《ひやか》しながら歩いて行くのが何よりも楽みに其頃は思つて居た。そして又、村の若者の親なども、これはもう公然止むを得ざる事と黙許して居て、「家の忰《せがれ》もはア、色気が附いて来ただで、近い中に湯田中に遣らずばなるめい、お前方《めいがた》附いて居て、間違の無《ね》いやうに遊ばして呉らつしやれ」とその兄分の若い衆に頼むものさへある。兎《と》に角《かく》、村の若い者で、湯田中に遊びに行かぬ者は一人も無く、又初めての翌朝、兄分の者に昨夜《ゆうべ》の一伍一什《いちぶしじふ》を無理に話させられて、顔を赤く為《し》ないものは一人も無い。
 重右衛門を始めて湯田中に連れて行つたのは、勝五郎といふ其頃有名な兄分で、今では失敗して行衛《ゆくへ》知れずになつて居るが、それがよく重右衛門の初陣の夜の事を得意になつて人に話した。
「重右め、不具《かたは》だもんだで、姫つ子が何うしても承知しねえ、二|夜《ばん》、三|夜《ばん》、五|夜《ばん》ほど続けて行つて、姫つ子を幾人も変へて見たが、何奴《どいつ》も、此奴も厭だアつてぬかして言ふ事を聞かねえだ。朝になつて、あの田中の堤《どて》の上を茫然《ぼんやり》帰つて来ると、重右め、いつも浮かぬ顔をして待つて居る。咋夜《ゆうべ》は何うだつたつて……聞くと、頭ア振つて駄目だアと言ふ。それが余り幾夜も続くので、私も、はア、終《つひ》には気の毒になつて、重右だツて、人間だア。不具に生れたのは、自分《われ》が悪いのぢやねえ。それだのに、その不具の為めに、女を知る事が出来ねえとあつては、これア気の毒だア。一つ肌を抜いで世話をして遣らうと思つて、それから私の知つて居る女郎屋の嚊様《かゝさま》に行つてこれ/\だつて話して遣つただ。すると、流石《さすが》は商売人だで、訳なく承知して呉れて、重右め、其処に行つて泊る事に為つただ。明日の朝、何んな顔をして居るかと思つたら、奴め、莞爾《にこ/\》と笑つて居やがる。背中を一つ喰はせて遣ると、いひ[#「いひ」に傍点]/\/\と笑やがつたが、其笑ひ様つて言つたら、そりや形容《かたち》にも話にも出来ねえだ。本当に、私あ、随分人を湯田中に連れて行つたが、重右の奴ぐらゐ、手数《てかず》の懸《かゝ》つたのは無え」
 と高く笑つて、
「それにしても、考へると、可笑《をかし》くつてなんねえだよ。あの大《でか》い睾丸を拘へてよ、それで姫ツ子を自由に為《し》ようつて言んだから、こいつは中々骨が折れるあ!」
 と言ふのが例だ。
 で、其からといふものは、重右衛門は好く湯田中に出懸けて行つたが、金を費《つか》ふ割に余りちやほやされないので、つねに悒々《おふ/\》として楽しまなかつたといふ事である。
 其中には段々家は失敗に失敗を重ねて、祖父が一人真面目に心配して居るけれど、さてそれを何うする事も出来ず田地は益々人手に渡つて、祖父の死んだ時(それは丁度重右衛門が二十二の時であつた)にはもう田畠《でんばた》合せて一町歩位しか無かつたとの話だ。ことに、その祖父の死ぬ時に一つの悲しい話がある。それは、其頃重右衛門は湯田中に深く陥《はま》つて居る女があつたとかで、家の衰へて行くのにも頓着せず、米を売つた代価とか、蚕《かひこ》を売つた金とかありさへすれば、五両なり十両なりそれを残らず引攫《ひつさら》つて飛出して、四日、五日、その金の有らん限り、流連《ゐつゞけ》して更に家に帰らうとも為なかつた。父親と母親とは重右街門とは始めから仲が悪いので、商売を為るとか言つて、其頃長野へ出て居つたから、家には只死に瀕した祖父一人。その祖父は曾《かつ》て孫を此上なく寵愛《ちようあい》して、凡《およ》そ祖父の孫に対する愛は、遺憾《ゐかん》なく尽して居つたにも拘《かゝは》らず、その死の床には侍《はべ》つて居るものが一人も無いとは!
 二日程前から病に罹《かゝ》つて、老人はその腰の曲つた姿を家の外に顕《あら》はさなかつたが、其三日目の晩に、あまり家の中がしんとして居ると言ふので、隣の者が行つて見ると、老人《としより》行火《あんくわ》に凭《よ》り懸つたまゝ、丸くなつて打伏して居る。
「爺様《ぢいさん》! 何うだね」
 と声を懸けても、返事が無い。
「爺様!」
 と再び呼んでも、猶《なほ》返事を為ようとも為ない。これは不思議だと怪んで、急いで傍に行つて見ると、体がぐたりとして水涕《みづつぱな》を出したまゝ、早既に締《こと》が切れて居る。驚いて、これを村の世話役に報告する、湯田中の重右衛門に使を出す、と、重右衛門は遊廓の二階で、大睾丸を抱へて大騒を遣つて居る最中だつたさうで、祖父《ぢゝ》が死んだといふ悲むべき報知を聞いても、更に涙一つ滴《こぼ》さうでもなく、「死んで了つたものは仕方が無え、明日帰つて、緩《ゆつく》り葬礼《ともれひ》を出して遣るから、もう帰つて呉れても好い」との無情な言草には、使の者も殆《ほとん》ど呆《あき》れ返つたとの事だ。
 兎に角重右衛門は此頃からそろ/\評判が悪くなつたので、その祖父の孫に対する愛を知つて居る人は、他村の者までも、重右衛門の最後の必ず好くないといふ事を私語《さゝや》き合つたのである。
 祖父が死んだので、父親母親は一先《ひとまづ》村へ帰つて、少時《しばらく》其家に住んで居た。が、この親子の間柄《あひだ》といふものは、祖父が余り過度に愛した故《せゐ》でもあらうが、それは驚くばかり冷《ひやゝ》かで、何かと言つては、直《ぢ》き親子で衝突して、撲《なぐ》り合ひを始める。仲裁に入ると、その仲裁に入つた者まで撲り飛ばして、傷を負はせるといふ有様なので、後には誰も相手に為る者が無くなつて了つた。で、この親と子の間に少なからざる活闘が演じられたが、重右衛門は体格が大きく、馬鹿力があつて、其上意地が非常に強く、酒を飲むと、殆ど親子の見さかひも無くなつて了ふものだから、流石《さすが》の親達も終《つひ》には呆れ返つてこんな子息《むすこ》の傍には居られぬ、と一年|許《ばかり》して、又長野へ出て行つた。
 これからが重右衛門の罪悪史である。祖父は歿《な》くなる、親は追出す、もう誰一人その我儘《わがまゝ》を抑《と》めるものが無くなつたので、初めの中は自分の家の財産を抵当に、彼方《あつち》此方《こつち》から金を工面して、猶《なほ》その放蕩《はうたう》を続けて居た。けれど重右衛門とて、丸きり意識を失つた馬鹿者でも無いから、満更その自分の一生に就いて思慮を費《つひ》やさぬ事も無いので、時にはいろ/\その将来の事を苦にして、自分の家の没落をも何うかして恢復《くわいふく》したいと思つた事もあつたらしい。其証拠には、それから、大凡《およそ》一年ばかり経つと、丸で人間が変つたかと思はれるやうに、もうふつゝりと女郎買をやめて、小作人まかせに荒れて居た田地を耕し、人の為めに馬を曳《ひ》いて賃金を取り、養蚕《やうさん》の手伝をして日当を稼ぐなど、それは村の人が一時眼を聳《そば》だてる程の勤勉なる労働者と為つた
 其頃である。稍《やゝ》その信用が恢復しようとした頃である。村に世話好の男があつて、重右衛門も此頃では余程身持も修《をさ》まつて来たやうだし、あゝ勤勉に労働する処を見ると、将来にも左程希望が無いとも云へぬ。一つ相応な嫁を周旋して、一層身が堅まるやうに為《し》て遣らうではないかといふ者があつたが、それに賛成する者も随分あつて、彼れかこれかといよ/\相応の嫁を探して遣る事と為つた。
 其候補者には誰が為つたらう。
 その頃、村の尽頭《はづれ》に老婆と一緒に駄菓子の見世《みせ》を出して、子供等を相手に、亀の子焼などを商《あきな》つて、辛うじて其日の生活を立てて行く女があつた。生れは何でも越後《ゑちご》の者だといふ事だが、其処に住んだのは、七八年前の事で、始めはその父親らしい腰の曲つた顔の燻《くすぶ》つた汚《きたな》らしい爺様《ぢいさま》も居つた相だが、それは間もなく死んで、今では母の老婆と二人暮し。村の若い者などが時々遊びに行く事があつても、不器量で、無愛想で、おまけに口が少し訥《ども》ると来て居るから、誰も物好に手を出すものもなく、二十五歳の今日まで、男といふものは猫より外に抱いた事も無かつた。けれど其性質は悪くはない相で、子供などには中々優しくする様子であるから、何うだ、重右衛門、姿色《みめ》よりも心と言ふ譬《たとへ》もある、あれを貰ふ気は無いかと勧めた。
 重右衛門も流石《さすが》に二の足を踏んだに相違ないが、余りに人から執念《しふね》く勧めらるゝので、それでは何うか好いやうにして下され、私等は、ハア、どうせ不具者《かたはもの》でごすでと言つて承知して、それより一月ならざるに、重右衛門の寂《さび》しい家宅《いへ》にはをり/\女の笑ふ声が聞える様になつた。
 村の人はこれで重右衛門の身が堅まつたと思つて喜んだのである。けれどそれは少くとも重右衛門のやうな性格と重右衛門のやうな先天的不備なところがある人間には間違つた皮相な観察であつた。一体重右衛門といふ男は負け嫌ひの、横着の、図々しいところがあつて、そして其上に烈《はげ》しい/\熱情を有《も》つて居る。で、この熱情が旨《うま》く用ひられると、中々大した事業をも為るし、人の眼を驚かす程の偉功をも建てる事が出来るのだけれど、惜しい事には、この男にはこれを行ふ力が欠けて居る。先天的に欠けて居る。この男には「自分は不具者《かたはもの》、自分は普通の人間と肩を並べることが出来ぬ不具もの」といふ考が、小児《こども》の中からその頭脳に浸《し》み込んで居て、何かすぐれた事でも為ようと思ふと、直ぐその悲しむべき考が脳を衝《つ》いて上つて来る。そしてこの不具者といふ消極的思想が言ふべからざる不快の念をその熱情の唯中に、丁度氷でもあるかのやうに、極めて烈しく打込んで行く。この不快の念、これが起るほど、かれには辛《つら》いことはなく、又これが起るほど、かれには忌々《いま/\》しい事はない。何故《なぜ》自分は不具に生れたか、何故自分は他の人と同じ天分を受ける事が出来なかつたか。
 親が憎い、己《おれ》を不具に生み付けた親が憎い。となると、自分の全身には殆《ほとん》ど火焔《くわえん》を帯びた不動尊も啻《たゞ》ならざる、憎悪《ぞうを》、怨恨《ゑんこん》、嫉妬《しつと》などの徹骨の苦々しい情が、寸時もじつとして居られぬほどに簇《むらが》つて来て、口惜《くや》しくつて/\、忌々《いま/\》しくつて/\、出来るものならば、この天地を引裂《ひつさ》いて、この世の中を闇にして、それで、自分も真逆様《まつさかさま》にその暗い深い穴の中に落ちて行つたなら、何《ど》んなに心地が快《い》いだらうといふやうな浅ましい心が起る。
 かういふ時には、譬《たと》へ一銭の銅貨を持つて居らないでも、酒を飲まなければ、何うしても腹の中の虫が承知しない。仕方が無いから、居酒屋に飛んで行つて一杯飲む、二杯飲む。あとは一升、二升。
 重右衛門の為めには、女房が出来たのは余り好い事では無かつたが、もし二人の間に早く子供が生れたなら、或は重右衛門のこの腹の虫を全く医《いや》し得たかも知れぬ。けれど不幸にも一年の間に子をつくることが出来なかつた二人の仲は、次第に殺伐《さつばつ》に為《な》り、乱暴に為り、無遠慮になつて、そして、その場句《あげく》には、泣声、尖声《とがりごゑ》を出しての大立廻。それも度重なつては、犬の喧嘩と振向いて見るものなく、女房の顔には殆ど生傷《なまきず》が絶えぬといふやうな寧《むし》ろ浅ましい境遇に陥つて行つた。
 その結果として、折角
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