には出来ねえだ」
 と他の老婆は言葉を合せた。
 自分は其前をも行過ぎた。
 すると、路の角に居酒屋らしいものがあつて、其処には洋燈《らんぷ》が明るく点《つ》いて居るが、中《うち》には七八人の村の若者が酒を飲んで、頻《しき》りに大きい声を立《たて》て居る。
 立留つて聞くと、
「重右衛門は火事の中何処に行つて居たツて?」
「奴か、奴ア、直き山県さんの下の家に行つて、火事見舞に来たとか、何とか言つて、酒の馳走になつてけつかつた。あの位図太い奴ア無いだ」
「さういふ時、思ふさま、酒|喰《くら》はして、ぐつと遣つて仕舞へば好いんだ」
「本当にそれが一番早道だア、と我《おら》ア、いつでも言ふんだけど、まさか、それも出来ねえと見えて、それを遣つて呉れる人が無えだ」
「忌々《いめ/\》しい奴だなア」
 と其中の一人が叫んだ。
 自分は又歩き出した。路が其処から川の方に曲つて居るので、それについて左に曲り、猶《なほ》半町ほど辿《たど》つて行くと、もう其処は尾谷川の崖《がけ》で、石に激する水声が、今迄|種々《いろ/\》な悪声を聞いた自分の耳に、殆《ほとん》ど天上の音楽の如く聞える。月はもう高くなつたので、渓流の半面はその美しい光に明かに輝いて居るが、向ふに偏《かたよ》つた半面には、また容易に其光が到着しさうにも見えぬ。自分は崖に凭《よ》つて、そして今夜の出来事を考へた。友の言葉やら、村の評判やらから綜合《そうがふ》して見ると、この事件の中心に為《な》つて居る重右衛門といふ男は確かに自暴自棄に陥つて居るに相違ないと自分は思つた。けれど何うして渠《かれ》はその自暴自棄の暗い境に陥つたのであらうか。先程の老婆の言ふ所によれば、祖父様が悪いのだ、あまり可愛がり過ぎたから、それで彼様《あん》な風に為つたのだと言ふけれど、単に愛情の過度といふのみで、それで人間が、己《おのれ》の故郷の家屋を焼くといふ程の烈しい暗黒の境《きやう》に陥るであらうか。殊に此村には一種の冒険の思想が満ち渡つて居て、もし単に故郷に容《い》れられぬといふばかりならば、根本の父のやうに、又は塩町の湯屋のやうに、憤《いきどほり》を発して他郷に出て、それで名誉を恢復《くわいふく》した例《ためし》は幾許《いくら》もある。であるのに、それを敢《あへ》て為《し》ようとも為《せ》ず、かうして故郷の人に反抗して居るといふのは、其処に何か理由が無くてはならぬ。その理由は先天的性質か、それとも又境遇から起つた事か。
 種々に空想を逞《たくまし》うしたが、未だ其人をさへ見た事の無い身の、完全にそれを断定することが何うして出来よう。遂《つひ》に思切つて、そして帰宅すべく家路に就いた。路は昼間|小僮《せうどう》に案内して貰つて知つて居るから別段甚しく迷ひもせずに、やがて緑樹の欝蒼《こんもり》と生ひ茂つた、月の光の満足にさし透《とほ》らぬ、少しく小暗《をぐら》い阪道へとかゝつて来た。村の方ではまだ騒いで居ると見えて、折々人声は聞えるけれど、此の四辺《あたり》はひつそりと沈まり返つて、木《こ》の葉《は》の戦《そよ》ぐ音すら聞えぬ。自分は月の光の地上に織り出した樹の影を踏みながら、阪の中段に構へられてある一軒の農家の方へと只《たゞ》無意味に近づいて行つた。
 すると、その家の垣根の前に小さな人の影があつて、低頭《うつぶき》になつて頻りに何か為て居るではないか。勿論家の蔭であるから、それと分明《はつきり》とは解らぬが、その影によつて判断すると、それは確かに大人で無いといふ事がよく解る。自分は立留つた。そして樹の蔭に身を潜めて、暫《しば》しその為様《せんやう》を見て居た。
 ぱツとマッチを擦《す》る音!
 同時に
「誰だ!」
 と叫んで自分は走り寄つた。けれどその影の敏捷《びんせふ》なる、とても人間業《にんげんわざ》とは思はれぬばかりに、走寄る自分の袖《そで》の下をすり抜けて、電光《いなづま》の如く傍の森の中に身を没《かく》して了つた。跡には石油を灑《そゝ》いだ材料に火が移つて盛《さかん》に燃え出した。
「火事だ、火事だア」
 と自分は声を限りに叫んだ。

     八

 藤田重右衛門と言ふのは、昔は村でも中々の家柄で祖父の代までは田の十町も所有して、小作人の七八人も遣《つか》つた事のある身分だといふことである。家は丁度《ちやうど》尾谷川に臨んだ一帯の平地にあつて、樫《かし》の疎《まば》らな並樹《なみき》がぐるりと其の周囲を囲んで居る奥に、一|棟《むね》の母屋《おもや》、土蔵、物置と、普請《ふしん》も尋常《よのつね》よりは堅く出来て居て、村に何か事のある時には、その祖父といふ人は必ず総代か世話人に選ばれるといふ程の名望家であつた。現に根本三之助の乱暴を働いた頃にも、その村の相談役で、千曲川《ちくまがは》に投込《はふりこ》んで了《しま》へと決議した人の一人であつたといふ。性質の穏かな、言葉数の少ない、慈愛心の深い人で、殊に学問――と謂《い》ふ程でも無いが、御家流《おいへりう》の字が村にも匹敵《ひつてき》するものが無い程上手で、他村への交渉、飯山藩の武士への文通などは皆この人に頼んで書いて貰ふのが殆ど例になつて居たといふ事である。この人は千曲川の対岸の大俣《おほまた》といふ処から、妻を娶《めと》つたが、この妻といふ人も至極好人物で、貧乏者にはよく米を遣つたり、金銭を施したりして、年が老《と》つてからは、寺参りをのみ課業として、全く後生《ごしやう》を願ふといふ念より外に他《ほか》は無かつた。であるのに、僅《わづ》か一代を隔てて、何うしてこんな不幸がその藤田一家を襲つたのであらうか。何うしてその祖父祖母の孫に今の重右衛門のやうな、乱暴|無慚《むざん》の人間が出たのであらうか。
 その優しい正しい祖父祖母の問に、仮令《たとへ》女でも好いから、まことの血統を帯びた子といふ者が有つたなら、決してこんな事は無かつたらうとは、村でも心ある者の常に口に言ふ所であるが、不幸にもその祖父祖母の間には一人の子供も無かつたので、藤田の系統《けつとう》を継《つ》がしむる為めに、二人は他の家から養子を為なければならなかつた。今の重右衛門の父と言ふのは、芋沢のさる大尽の次男で、母は村の杉坂正五郎といふものの三女である。何方《どちら》も左程悪い人間と言ふではないが、否、現に今も子息《むすこ》の事を苦にして、村の者に顔を合せるのも恥しいと山の中に隠れて出て来ぬといふやうな寧《むし》ろ正直な人間ではあるが、さりとて、又、祖父祖母のやうな卓《すぐ》れて美しい性質は夫婦とも露ばかりも持つて居らなかつたので、母方の伯父《をぢ》といふ人は人殺をして斬罪《ざんざい》に処せられたといふ悪い歴史を持つて居るのであつた。で、この夫婦養子の間《なか》に間もなく出来たのが、今の重右衛門。子の無い処の孫であるから、祖父祖母の寵愛《ちようあい》は一方《ひとかた》ではなく、一にも孫、二にも孫と畳にも置かぬほどにちやほやして、その寵愛する様は、他所目《よそめ》にも可笑《をか》しい程であつたといふ。処が、この最愛の孫に一つ悲むべきことがある。それは生れながらにして、腸の一部が睾丸《かうぐわん》に下りて居る事で、何うかしてこの大睾丸《おほきんたま》を治《なほ》して遣《や》る方法は無いかと、長野まで態々《わざ/\》出懸けて、いろ/\医者にも掛けて見たけれど、まだ其頃は医術も開けて居らぬ時代の事とて、一時は腸に収まつて居ても、又何かの拍子で忽地《たちまち》元に復して了ふので、いくら可愛想に思つても、何《ど》う為《す》る事も出来なかつた。
 これが又一層|不便《ふびん》を増すの料となつて、孫や孫やと、その祖父祖母の寵愛は益《ます/\》太甚《はなはだ》しく、四歳《よつ》五歳《いつゝ》、六歳《むつ》は、夢のやうに掌《たなごころ》の中に過ぎて、段々その性質があらはれて来た。けれど、子供の時分には、只非常に意地の強いといふばかりで、別段これと言つて他の童《わらべ》に異つたところも無かつたといふ事だが、それでも今の老人の中には、重右衛門の子供にも似ぬ、一種|茫然《ぼんやり》したやうな、しつかりしたやうな、要領を得ない処があるのを記憶して居て、どうもあの子は昔から変つて居ると思つたと言ふ者もある。が、概して他の童にさしたる相違が無かつたといふのが、一般の評であつた。山県の総領の兄などはその幼い頃の遊び夥伴《なかま》で、よく一所に蜻蛉《とんぼ》を交《つる》ませに行つたり、草を摘みに行つたり、山葡萄《やまぶだう》を採《と》りに行つたり為た事があるといふが、今で、一番記憶に残つて居るのは、鎮守の境内で、鬼事《おにごと》を為る時、重右衛門は睾丸が大いものだから、いつも十分に駆ける事が出来ず、始終中《しよつちゆう》鬼にばかり為《な》つて居たといふ事と、山茱萸《やまぐみ》を採りに三峯に行つた時、その大睾丸を蜂に食はれて、家に帰るまで泣き続けて居たといふ事と、今一つ、よく大睾丸を材料《たね》にして、いろ/\渾名《あざな》を付けたり、悪口を言つたり為《す》るものだから、終《しまひ》にはそれを言ひ始めると、厭《いや》な顔をして、折角《せつかく》楽しげに遊んで居たのも直ぐ止めて帰つて了ふやうになつたといふ事位のものであるさうな。けれど其先天的不具がかれの一生の上に非常に悲劇の材料と為つたのは事実で、人間と生れて、これほど不幸福《ふしあわせ》なものは有るまい。それから愛情の過度、これも確かにかれの今日の境遇に陥つた一つの大なる原因で、大きくなる迄、孫や、孫やとやさしい祖父にちやほやされて、一時村の遊び夥伴《なかま》の中に、重右衛門と名を呼ぶ者はなく、孫や、孫やで通つたなども、かれの悲劇を思ふ人の有力なる材料になるに相違ない。
 月日は流るゝ如く過ぎて、早くも渠《かれ》は十七の若者となつた。其年の春、祖母は老病で死んで了つたが、此年ほど藤田家に取つて運の悪い年は無かつたので、其初夏には、父親が今年こそはと見当を付けて、連年の養蚕《やうさん》の失敗を恢復《くわいふく》しようと、非常に手を拡《ひろ》げて養《か》つた蚕が、気候の具合で、すつかり外《はづ》れて、一時に田地の半分ほども人手に渡して了ふといふ始末。かてて加へて、妻の持病の子宮が再発して、枕も上らず臥《ふ》せつて居ると、父親は又父親で、失敗の自棄《やけ》を医《いや》さん為め、長野の遊廓にありもせぬ金を工面して、五日も六日も流連《ゐつゞけ》して帰らぬので、年を老《と》つた、人の好い七十近い祖父が、独《ひと》りでそれを心配して、孫や孫やと頻《しき》りに重右衛門ばかりを力にして、何うか貴様は、親父《おやぢ》のやうに意気地なしには為つて呉れるな、祖父《ぢいさん》の代の田地《でんち》を何うか元のやうに恢復《くわいふく》して呉れと、殆ど口癖のやうに言つて居た。
 御存じでは御座るまいが、村には若者の遊び場所と言ふやうなものがあつて、(自分は根本行輔の口からこの物語を聞いて居るので)昼間の職業《しごと》を終つて夕飯を済すと、いつも其処に行つて、娘の子の話やら、喧嘩の話やら、賭博《ばくち》の話やら、いろ/\くだらぬ話を為て、傍《かたは》ら物を食つたり、酒を飲んだりする処がある。今では学校が出来て、教育の大切な事が誰の頭脳《あたま》にも入つて来たから、さういふ下らぬ遊を為《す》るものも少く為《な》つたけれど、まだ私等の頃までは、随分それが盛んで、やれ平右衛門の二番娘は容色《きりやう》が好いの、やれ総助の処の末の娘が段々色気が付いて来たのと下らぬ噂を為《する》ばかりならまだ好いが、若者と若者との間にその娘に就いての鞘当《さやあて》が始まる、口論が始まる、喧嘩が始まる、皿が飛ぶ、徳利が破《こは》れるといふ大活劇を演ずることも度々で、それは随分|弊《へい》が多かつた。殊に其遊び場所の最も悪い弊と言ふのは、その若者の群の中にも自《おのづ》から勢力の有るものと、無いものとの区別があつて、其勢力のある者が、まだ十六七の若い青年を面白半分に悪いところに誘つて行く、これが第一の弊だと思ふ。

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