ると、それは懐《なつか》しい山県行三郎君で、自分が来たといふ事を今少し前に知らせて遣つたものだから、万事を差措《さしお》いて急いで遣つて来たのであつた。夏の夕は既に暮れて、夕暮の海の様に晴れ渡つた大空には、星が降るやうに閃《きら》めいて居るが、十六日の月は稍《やゝ》遅く、今しも高社山《かうしやざん》の真黒な姿の間から、其の最初の光を放たうとして、その先鋒《せんぽう》とも称すべき一帯の余光を既に夜露の深い野に山に漲《みなぎ》らして居た。四辺《あたり》はしんとして、しつとりとして、折々何とも形容の出来ない涼しい好い風が、がさ/\と前の玉蜀黍《たうもろこし》の大きな葉を動かすばかり、いつも聞えるといふ虫の声さへ今宵《こよひ》は何《ど》うしてか音を絶つた。でも、黙つて、静かに耳を欹《そばだ》てると、遠くでさら/\と流れて居る尾谷川の渓流の響が、何だか他界から来るある微妙な音楽でも聞くかのやうに、極めて微かに聞えて居る。
 疎《まば》らな鎮守の森を透《とほ》して、閃々《きら/\》する燈火の影が二つ三つ見え出した頃には、月が已《すで》にその美しい姿を高社山の黒い偉大なる姿の上に顕《あら》はして居て、その流るゝやうな涼しい光は先《まづ》第一に三峯《みつみね》の絶巓《いたゞき》とも覚しきあたりの樹立《こだち》の上を掠《かす》めて、それから山の陰に偏《かたよ》つて流るゝ尾谷の渓流には及ばずに直ちに丘の麓《ふもと》の村を照し、それから鎮守の森の一端を明かに染めて、漸《やうや》く自分等の前の蕎麦の畑に及んで居る。洋燈《ランプ》をさへ点《つ》けなければ、其光は我等の清宴の座に充《み》ちて居るに相違ないのである。
 山県が来たので、一座の話に花が咲いて、東京の話、学校の話、英語の話、詩の話、文学の話、それからそれへと更にその興は尽きようともせぬ。果ては、自分は興《きよう》に堪へかねて、常々暗誦《あんしよう》して居る長恨歌《ちやうごんか》を極めて声低く吟《ぎん》じ始めた。
「この良夜を如何《いか》んですナア」
 と山県はしみ/″\感じたやうに言つた。
 此時鎮守の森の陰あたりから、夜を戒《いまし》める柝木《ひやうしぎ》の音がかち/\と聞えて、それが段々向ふヘ/\と遠《とほざ》かつて行く。
「今夜の柝木番は誰だえ、君ぢや無かつたか」
 と根本は山県に訊《たづ》ねた。
「私《わし》だつたけれど、……富山君が来たと謂《い》ふから、松本君に頼んで、代つて貰つたんです。その代り今夜十時から二時間ばかり忍びの方を勤めさせられるのだ」
「僕も二時から起される訳になつて居るんだが」と言つて、急に言葉を変へて、「それから、先程《さつき》聞くと、昼間あの娘つ子が喞筒《ポンプ》の稽古を見て居たと言ふが、それア、本当かね」
「本当とも……総左衛門どんの家の角の処で、莞爾《にこ/\》笑ひながら見てけつかるだ。余り小癪《こしやく》に触るつて言ふんで、何でも五六人|許《ばかり》で、撲《なぐ》りに懸つた風なもんだが、巧にその下を潜《くゞ》つて狐のやうに、ひよん/\遁《に》げて行つて了つたさうだ。……それから重右衛門も来て見物して居たぢやないか」
「重右衛門も?」
「あの野郎、何処まで太いんだか、見物しながら、駐在所の山田に喧嘩見たやうな事を吹懸《ふつか》けて居たつけ。何んだ、この藤田重右衛門が駐在所の巡査なんか恐れやしねえ、何んだ村の奴等ア、喞筒《ポンプ》なんて、騒ぎやがつて、それよりア、この重右衛門に、お酒《みき》でも上げた方が余程|効能《きゝめ》があるんだ。ツて、大きな声で呶《ぬか》して居やがつたつけ。何でも酒を余程飲んで居た風だつた」
「誰が酒を飲ましたのか知らん」
「誰がツて……野郎、又|威嚇《おどし》文句で、又兵衛(酒屋の主人)の許《とこ》へ行つて、酒の五合も喰《くら》つて来たんだ」
「困り者だナア」
 と根本は心《しん》から独語《つぶや》いた。
「それから、言ふのを忘れたが、……先程《さつき》此処に来る時、あの森の傍で、がさ/\音が為《す》るから、何かと思つて、よく見ると、あの娘つ子め、何かまご/\捜して居る。此奴《こいつ》怪しいと思つたから、何を為《し》てるんだ! と態《わざ》と大《でか》い声を懸《か》けて遣つた。すると、猫のやうな眼で、ぎよろツと僕を見て、そしてがさ/\と奥の方に身を隠して了つた。丸で獣に些《ちつ》とも違はない……それから、私は、会議所に行つて、これ/\だから注意して呉れと言つて来た」
 自分は二人の会話を聞きながら、山中の平和といふ事と、人生の巴渦《うづまき》といふ事を取留《とりとめ》もなく考へて居た。月は段々高くなつて、水の如き光は既に夜の空に名残《なごり》なく充ち渡つて、地上に置き余つた露は煌々《きら/\》とさも美しく閃《きら》めいて居る。さらぬだに寂寞《せきばく》たる山中の村はいよ/\しんとして了つて、虫の音と、風の声と、水の流るゝ調べの外には更に何の物音も為《せ》ぬ。
 一時間程経つた。
 すると、不意に、この音も無くしんとした天地を破つて、銅鑼《どら》を叩いたなら、かういふ厭《いや》な音が為《す》るであらうと思はれる間の抜けたしかも急な鐘の乱打の響!
 二人は愕然《ぎよつ》とした。
「又|遣付《やつつ》けた!」
 と忌々《いま/\》しさうに叫んで、根本の父は一散に駆けて行つた。
「粂《くめ》さんの家《とこ》だア、粂さんの家だア」
 と、誰か向ふの畔《あぜ》を走りながら、叫ぶ者がある。山県はちらと見たが、「あ、僕の家らしい!」と叫んで、そして跣足《はだし》の儘《まゝ》、慌《あわ》てて飛出した。
 根本も続いて飛出した。
 見ると、月の光に黒く出て居る鎮守の森の陰から、やゝ白けた一通の烟《けむり》が蜃気楼《しんきろう》のやうに勢よく立のぼつて、其中から紅《あか》い火が長い舌を吐いて、家の燃える音がぱち/\と凄《すさま》じく聞える。山際の寺の鐘も続いて烈しく鳴り始めた。
 一散に自分も駆け出した。

     七

 田の畔《くろ》を越えて、丘の上を抜けて、谷川の流を横《よこぎ》つて、前から、後から、右から、左から、其方向に向つて走り行く人の群、それが丁度大海に集るごとく、鎮守の森の陰の路へと進んで来るので、平生《いつも》ならば人も滅多に来ない鎮守の森の裏山は全く人の影を以て填《うづ》められて了つた。自分は駆出す事は駆出したが、今日来たばかりで道の案内も好く知らぬ身の、余り飛出し過ぎて思ひも懸けぬ災難に逢《あ》つては為《な》らぬと思つたから、其儘少し離れた、小高いところに身を寄せて、無念ながら、手を束《つか》ねて、友の家の焼けるのをじつと見て居た。
 眼前に広げられた一場の光景! 今燃えて居るのは丁度鎮守の森の東表に向つた、大きな家で、火は既にその屋《やね》に及んで居るけれど、まだすつかり燃え出したといふ程ではなく、半分燃え懸けた窓からは、燻《くすぶ》つた黒い色の烟《けむり》がもく/\と凄《すさま》じく迸《ほとばし》り出でて、それがすつかり火に為つたならば、下の二三軒の家屋は勿論《もちろん》、前の白壁の土蔵も危くはありはせぬかと思はれるばかりであつた。けれど消防組はまだ一向見えぬ様子で、昼間盛んに稽古して居たその新調の喞筒《ポンプ》も、まだ其現場に駆け付けては居らなかつた。暫時《しばらく》すると、燻《くすぶ》つて居た火は恐ろしく凄じい勢でぱつと屋根の上に燃え上る……と……四辺《あたり》が急に真昼のやうに明くなつて、其処等に立つて居る人の影、辛《から》うじて運び出した二三の家具、其他いろ/\の悲惨な光景が、極めて明かに顕《あら》はれて見える。火は既に全屋に及んで、その火の子の高く騰《あが》るさまの凄じさと言つたら、無い。幸ひに風が無いので、火勢は左程《さほど》四方には蔓延《まんえん》せぬけれど、下の家の危さは、見て居ても、殆ど冷汗が出るばかりである。
「喞筒《ポンプ》!」
 と叫ぶ声。
「おい、喞筒は何を為《し》て居るだアーい」
 と長く曳いて叫ぶ声。
 けれど、本当に何うしたのか、喞筒はまだ遣つて来るやうな様子も見えぬ。屋根の焼落つる度《たび》に、美しく火花を散した火の子が高く上つて、やゝ風を得た火勢は、今度は今迄と違つて士蔵の方へと片靡《かたなび》きがして来た。土蔵の上には五六人ばかり人が上つて頻《しき》りに拒《ふせ》いで居た様子だつたが、これに面喰《めんくら》つてか、一人/\下りて、今は一つの黒い影を止めなくなつて了つた。
「熱つくて堪らねえ」
「まご/\して居ると、焼死んで了ふア」
「何うしやがつたんだ。一体、喞筒《ポンプ》は? 気が利《き》かねえ奴等でねえか」
 と土蔵から下りて来た人の会話らしい声がすぐ自分の脚下《あしもと》に聞える。
 と、思ふと、向ふの低い窪地《くぼち》に簇々《むら/\》と十五六人|許《ばかり》の人数が顕《あら》はれて、其処に辛うじて運んで来たらしいのは昼間見たその新調の喞筒である。
 やがて火光に向つて一道の水が烈しく迸出《へいしゆつ》したのを自分は認めた。
「喞筒《ポンプ》確《しつ》かり頼むぞい!」
「確かり遣れ」
「喞筒!」
 と彼方《あつち》此方《こつち》から声が懸る。
 で、その喞筒《ポンプ》の水の方向は或は右に、或は左に、多くは正鵠《せいこく》を得なかつたにも拘《かゝは》らず、兎《と》に角《かく》、多量の水がその方面に向つて灑《そゝ》がれたのと、幸ひ風があまり無かつたのとで、下なる低い家屋にも、前なる高い土蔵にもその火を移す事なしに、首尾よく鎮火したのである。
 それが丁度十時二十分。
 疲れたから、帰つて、寝ようかとも思つたが、火事の後の空はいよ/\澄んで、山中の月の光の美しさは、此の世のものとは思はれぬばかりであるから、少し渓流の畔《ほとり》でも歩いて見ようと、其儘《そのまゝ》焼跡をくるりと廻つて、柴の垣の続いて居る細い道を静かに村の方へと出た。
 村へ出て見ると、一軒として大騒を遣つて居らぬ家は無く、鎮火と聞いて孰《いづれ》も胸を安めたやうなものの、かう毎晩の様に火事があつては、とても安閑として生活して居られぬといふそは/\した不安の情が村一体に満ち渡つて、家々の角には、婦《をんな》やら、老人《としより》やらが、寄つて、集《たか》つて、いろ/\喧《かしま》しく語り合つて居る。
「本当にかう毎晩のやうに火事があつては、緩《ゆつ》くり寝ても居られねえだ。本当に早く何《ど》うか為《し》て貰はねえでは……」
「駐在所ぢや、一体《いつてい》何を為て居るんだか、はア、困つた事だ」
 前の老人らしい声で、
「駐在所で、仕末が出来《でけ》ねえだら、長野へつゝ走つて、何うかして貰ふが好《え》いし、長野でも何うも出来ねえけりや、仕方が無えから、村の顔役が集《たか》つて、千曲川へでも投込《はふりこ》んで了ふが好《え》いだ」
「本当に左様《さう》でも為《し》て貰はねいぢや……」
 猶《なほ》少し行くと、

「まご/\してると、己《おら》が家《とこ》もつん燃されて了ふかも知んねえだ。本当にまア、何うしたら好い事だか」
「困つた事だ」
 とさも困つたといふやうな調子。
 聞流して又少し歩いた。
「重右衛門がこんな騒動《さわぎ》を打始《ぶつぱじ》めようとは夢にも思ひ懸けなかつたゞ。あれの幼い頃はお互《たげへ》にまだ記憶《おぼ》えて居るだが、そんなに悪い餓鬼《がき》でも無かつたゞが……」
 かう言つたのは年の頃|大凡《およそ》六十五六の皺《しわ》くちやの老婆であつた。それに向つて立つて居るのも、これも同じく其年輩らしい老婆の姿で、今しも月の光にさも感に堪へぬといふ顔色《かほつき》を為《し》たが、前の老婆の言葉を受けて、「本当でごすよ。重右衛門は、妾《わし》の遠い親類筋だで、それでかう言ふのではごんせぬが、何アに、あれでも旨《うま》くさへ育てれや、こんな悪党にや為《な》りや仕ないんだす。一体|祖父様《ぢゝさま》が悪かつただす。余《あんま》り可愛がり過ぎたもんだで……」
「だから、子供《がき》を育てるのも、容易《ばか》
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