、いかにこの妻の丈高く、体格の大きいかといふ事に思ひ及んだ。これは大方東京で余り「老いたる夫と若い妻」との一行を見馴れた故《せゐ》であらう。
 自分はその妻の手に由《よ》つて、直ちに友の父なる人に紹介された。父なる人は折しも鋸《のこぎり》や、鎌や、唐瓜《たうなす》や、糸屑などの無茶苦茶に散《ちら》ばつて居る縁側に後向に坐つて、頻りに野菜の種を選分《えりわ》けて居るが、自分を見るや、兼ねて子息《むすこ》から噂《うはさ》に聞いて居つた身の、さも馴々しく、
「これは/\東京の先生――好《よ》う、まア、この山中《やまんなか》に」
 といふ調子で挨拶《あいさつ》された。
 流石《さすが》は若い頃江戸に出て苦労したといふ程あつて、その人を外《そら》さぬ話し振、その莞爾《にこ/\》と満面に笑《ゑみ》を含んだ顔色《かほつき》など、一見して自分はその尋常ならざる性質を知つた。輪廓の丸い、眼の鋭い、鼻の尖《とが》つた顔のつくりで、体格は丸で相撲取でもあるかのやうに、でつぷりと肥つて、体重は二十貫目以上もあらうかと思はれるばかりであつた。これが当年の無頼漢《ぶらいかん》、当年の空想家、当年の冒険家で、一度はこの平和な村の人々に持余されて、菰《こも》に包んで千曲川に投込まれようとまで相談された人かと思ふと、自分は悠遠《いうゑん》なる人生の不可思議を胸に覚えずには居られぬので。
 此時、奴僕《どぼく》らしい三十前後の顔の汚い男が駆けて遣つて来て、
「大旦那さア、がいに暑いんで、馬が疲れて、寝そべつて、起きねえが、はア何《ど》う為《す》べい」
 と叫んだ。
「また寝そべつたか、困るだなア、汝《われ》、余り劇《ひど》く虐使《こきつか》ふでねえか」
「虐使ふどころか、此間《こねえだ》も寝反《ねそべ》つただから、四俵つけるところを三俵にして来ただアが」
「何処《どけ》へ寝反つてるだ」
「孫右衛門どんの垣《かきね》の処の阪で、寝反つたまゝ何うしても起きねえだ。己《おら》あ何うかして起すべい思つて、孫右衛門さん許《とこ》へ頼みに行つただが、少《ちひせ》い娘《あま》つ子《こ》ばかりで、何うする事も為得《しえ》ねえだ」
「仕方の無《ね》え奴等だ」
 と罵倒《ばたう》したが、傍《そば》に立つて居る子息《むすこ》の妻に向つて、
「ぢや御客様にはえらい失礼だが、私《わし》あ馬を起しに行つて来るだあから、お前は御客様を奥に通して、行輔が帰つて来る迄《まで》、緩《ゆつく》り御休ませ申して置け」
 自分に向つては、
「それぢや、先生様失礼しやす!」
 自分の挨拶をも聞かず、
「一所に歩《あゆ》べ……おい、作公、何を愚図/\してやがるんだ?」
 と怒鳴りながら走つて行つた。
 同時に自分は奥の一室へと案内される。奥の一室――成程此処は少しは整頓して居る。床の間には何《ど》んな素人《しろうと》が見ても贋《にせ》と解り切つた文晁《ぶんてう》の山水《さんすゐ》が懸《かゝ》つて居て、長押《なげし》には孰《いづ》れ飯山あたりの零落《おちぶれ》士族から買つたと思はれる槍が二本、さも不遇を嘆じたやうに黒く燻《くすぶ》つて懸つて居る。けれど都とは違つて、造作は確乎《しつかり》として居るし、天井は高く造られてあるから風の流通もおのづから好く、只《たゞ》、馬小屋の蝿さへ此処まで押寄せて来なければ、中々居心の好い静かな室《へや》であるのだが……
 やがて妻君は茶器を運んで来たが、おづ/\と自分の前に坐つて、そして古くなつた九谷焼の急須《きふす》から、三十目くらゐの茶を汲んで出した。
「田舎は静かで好いですナア」
 と自分はそれとなく言ふと、
「いゝえ、静かどころでは、……此頃は、はア、えらく物騒で……」
「何うしてゞす」
 と自分は怪んで尋ねた。
「此頃は、はア、えらく火事があるんで、夜もゆつくり寝ては居られないで、はア」
「何うしてゞす?」
「何うしてといふ訳《わけ》も無《ね》えだすが……」
 と躊躇《ためら》ふのを、
「放火《つけび》なのですか」
「はア」
「誰か悪い者でもあるんですか」
「はア、悪い者があつて、どうも困り切りますだア」
 暫時《しばらく》沈黙《だんまり》。
「はア」と自分は緩《ぬる》い茶を一杯|啜《すゝ》つてから、「それでですナア、今|喞筒《ポンプ》を稽古して居るのは?」
「貴郎《あんた》さアも見て御座らしやつたゞか、火事が、はア、毎晩のやうにあつて、物騒で、仕方が無《ね》えものだで、村で、割前で金のう集めて、漸《やうや》く東京から昨日喞筒が出来て来ただア」
「東京から喞筒?」
「はア、昨日出来て来たばかしで……村にやもう何十年と火事なんぞは無いだで、喞筒なんぞは有りませんだつたが、今度は、はア仕方が無《ね》えのでごわす。そして、今夜にも火事が打始《ぶつぱじま》らねえ者でも無《ね》えといふので、若い者が午《ひる》から学校へ寄り集《あ》つて、喞筒の稽古を為《し》て居るんでごわす。……」と少時《しばし》途絶えて、「でも、……大方水は撒《ま》いたやうだで、もう直《ぢ》き帰つて来るでごわしやう」
 と言つたが、更に気を更《か》へて、
「まア、御疲れだせうに、緩《ゆつ》くり横にでも成つて休まつしやれ。牟礼《むれ》には三里には遠いだすから」
 と古い黒塗の枕を出して、そして挨拶して次の室《ま》へ下つた。
 見ると、中々好い眺望《てうばう》である。地位が高いので、村の全景がすつかり手に取るやうに見えて、尾谷川の閃々《きら/\》と夕日にかゞやく激湍《げきたん》や、三ツ峯の牛の臥《ね》たやうに低く長く連《つらな》つて居る翠微《すゐび》や、猶《なほ》少し遠く上州境の山が深紫の色になつて連《つらな》り亘《わた》つて居る有様や、ことに、高社山《かうしやざん》の卓《すぐ》れた姿が、此処から見ると、一層|魁偉《くわいゐ》の趣《おもむき》を呈して居るので、その雲煙の変化が少なからず、自分の心を動かしたのであつた。あゝこの平和な村! あゝこの美しい自然! と思ふとすると、今言つた妻君の言葉がゆくりなく簇々《むら/\》と自分の胸に思ひ出された。この平和な村に喞筒《ポンプ》! この美しい村に放火! 殊に何十年とそんな例《ためし》が無かつたといふこの村に! これは何か意味が無くてはならぬ。これは必ず不自然な事があつたに相違ないと自分は思つた。空想勝なる自分の胸は今しもこの山中にも猶絶えない人生の巴渦《うづまき》の烈しきを想像して転《うた》た一種の感に撲《うた》れたのであつた。

     六

「放火《つけび》が流行《はや》るツて言ふが、一体|何《ど》うしたんです?」
 かう言つて自分は友に訊《たづ》ねた。これは一時間程前、友はその喞筒《ポンプ》の稽古から帰つて来て、いろ/\昔の事や、よくこんな山中《やまんなか》に来て呉れたといふ事や、余り突然なので吃驚《びつくり》したといふ事や、六年ぶりの何や彼《か》やを殆《ほとん》ど語り尽した後で、自分の前には地酒の不味《まづい》のながら、二三本の徳利が既に全く倒されてあつて、名物の蕎麦《そば》が、椀に山盛に盛られてある。妻君は、田舎《ゐなか》流儀の馳走振に、日光塗の盆を控へて、隙《すき》が有つたなら、切込まうと立構へて居るので、既に数回の太刀打《たちうち》に一方《ひとかた》ならず参つて居る自分は、太《いた》くそれを恐れて居るのであつた。友も稍《やゝ》酔つた様子で、漸《やうや》く戸外《おもて》の闇《くら》くなつて行くのを見送つて居たが、不意に、かう訊《たづ》ねられて、われに返つたといふ風で、
「本当に因つて了《しま》ふですア、夜も碌々《ろく/\》寝られないのですから」
「それで、一体、犯罪者が解らんのかね?」
「それア、もう彼奴《きやつ》と極《きま》つて、居るんだが……」
「何故《なぜ》、捕縛しないのだね?」
「それが田舎ですア‥…」と友は言葉を意味あり気に長く曳いて、「駐在所に巡査ア、一人来て居る事は居るんだすが、田舎の巡査なんていふ者は、暢気《のんき》な者だで、嫌疑《けんぎ》が懸つたばかりでは、捕縛する事ア出来ん。現行犯でなければ……とかう言つて済まして居りやすだア。一体、巡査先生の方がびく/\して居るんで御座《ごわ》すア、だもんだで、彼奴《きやつ》ア、好い気に為《な》つて、始めからでは、もう十五六軒もツン燃やしましたぜ」
「十五六軒!」
「この小さい村、皆な合せても百戸位しか無《ね》いこの小さい村に、十五六軒ですだで、村|開闢《かいびやく》以来の珍事として、大騒を遣つて居りますだア」
「それは左様《さう》だらう」
 少時《しばらく》経《た》つてから、
「で、一体、その悪漢《わるもの》は何者だね、村の者かね」
「はア、村の者でさア」
「村の者で、それでそんな大胆な事を為《す》るといふのは、其処に何か理由がある事だらうが……」
「何アに、はア御話にも何にもなりやしやせん。放蕩者《どらもの》で、性質《たち》が悪くつて、五六年も前から、もう村の者ア、相手に仕なかつたんでごすから」
「まだ若いのかね」
「いや、もう四十二三‥…」
「それぢや分別盛《ふんべつざかり》だのに……」
 と自分は深く考へた。
「御口にア、合ひますめいけど、何にもがアせんだに、せめて、蕎麦なと上つてお呉れんし」
 と妻君は盆を出した。
 自分はもう十分であるといふ事を述べて、そして蕎麦の椀を保護すべく後に遺つた。それでは御酒《ごしゆ》でもと妻君は徳利を取上げたので、それをも辞義してはと、前のを飲干して一杯受けた。
「それにしても……」と自分は口を開いて、
「十何回も放火を為《す》るのに、一度位実行して居るところを見付けさうな者ですがナア」
「それが、彼奴《きやつ》が実行するのなら、無論見付けない事は無いだすが、彼奴の手下に娘《あま》つ子《こ》が一人居やして、そいつが馬鹿に敏捷《すばしつこ》くつて、丸で電光《いなづま》か何ぞのやうで、とても村の者の手には乗らねえだ」
「それは奴の本当の娘なんですか」
「否《いや》、今年の春頃から、嚊《かゝあ》代《がは》りに連れて来たんだといふ話で、何でも、はア、芋沢《いもさは》あたりの者だつて言ふ事だす。此奴が仕末におへねえ娘《あま》つ子《こ》で、稚《ちひさ》い頃から、親も兄弟もなく、野原で育つた、丸で獣《けだもの》といくらも変らねえと云ふ話で、何でも重右衛門(嫌疑者の名)が飯綱原《いひつなはら》で始めて春情《いゝこと》を教へたとか言《いふ》んで、それからは、村へ来て、嚊の代りを勤めて居るが、これが実に手におへねえだ。重右衛門が自身手を下すのでなく、この獣のやうな娘《むすめ》つ子《こ》に吩附《いひつ》けて火を放《つ》けさせるのだから、重右衛門と言ふ事が解つて居ても、それを捕縛するといふ事は出来ず、さればと言つて、娘つ子は敏捷《すばしこく》つて、捕へる事は猶々《なほ/\》出来ず、殆ど困つて仕舞つたでがすア」
「年齢《とし》は何歳《いくつ》位?」
「まだ漸《や》つと十七位のもんだせう」
「それが捕へる事が出来ないとは! 高が娘《むすめ》つ子《こ》一人」
「知らない人はさう思ふのは無理は無いだす。高が娘《あま》つ子《こ》一人、それを捕へる事が出来ぬとは、余り馬鹿/\しくつて話にも何にも為《な》らない様だが、それを知つて御覧なされ、それは実に驚いたもので、今其処に居たかと思ふと、もう一里も前に行つて居るといふ有様、若い者などがよく村の中央《まんなか》で邂逅《でつくは》して、石などを投《はふ》りつけて遣《や》る事が幾度《いくたび》もある相だすが、中々一人や二人では敵《かな》はない。反対《あべこべ》に眉間《みけん》に石を叩《たゝ》き付けられて、傷を負つた者は幾人《いくたり》もある。それで此方《こつち》が五人六人、十人と数が多くなると、屋根でも、樹でも、する/\と攀上《よぢのぼ》つて、丸で猫ででもあるかのやうに、森と言はず、田と言はず、川と言はず、直ちに遁《に》げて身を隠して了ふ。それは実に驚くべき者ですア」
 此時、ふと、
「やあ!」
 と言つて庭から入つて来た者があつた。見
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