の力と自然の姿とをあの位明かに見たことは、僕の貧しい経験には殆《ほとん》ど絶無と言つて好い。よく観察すれば、日本にも随分アントニイ、コルソフや、ニチルトッフ、ハーノブのやうな人間はあるのだ」と言つて話し出した。

     二

 まアずつと初めから話さう。自分が十六の時始めて東京に遊学に来た頃の事だから、もう余程古い話だが、其頃|麹町《かうぢまち》の中六番町に速成学館といふ小さな私立学校があつた。英学、独逸《ドイツ》学、数学、漢学、国学、何でも御座れの荒物屋で、重《おも》に陸軍士官学校、幼年学校の試験応募者の為めに必須の課目を授くるといふ、今でも好く神田、本郷|辺《へん》の中通《なかどほり》に見るまことにつまらぬ学校で、自分等が知つてから二年ばかり経《た》つて、其学校は潰《つぶ》れて了《しま》ひ、跡には大審院の判事か何かが、その家を大修繕して、裕《ゆた》かに生活して居るのを見た。けれど其古風な門は依然たる昔の儘《まゝ》で、自分は小倉《こくら》の古袴《ふるばかま》の短いのを着、肩を怒《いから》して、得々《とく/\》として其門に入つて行つたと思ふと、言ふに言はれぬ懐《なつ》かしい心地がし
前へ 次へ
全103ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング