つて遣つて来て見ると家の道具はもう大方持出して叩き売つて仕舞つたので、これと言つて金目なものは一つも無い。妓夫は怒るし、仕末に困つて、何うしようと思つて居ると、裏の馬小屋で、主人が居ないので、三日間食はずに、腹を減《へら》して居つた、栗毛の三歳が、物音を聞き付けて、一声高く嘶《いなゝ》いた。
「やア、まだ馬が居るア」
と言つて、平気でそれを曳出《ひきだ》して、飯をも与ヘずに、妓夫に渡した。そして、彼はその馬を売つた残りの金を費《つか》ふべく、再び湯田中へと飛び出して行つたのである。
其事が誰言ふとなく村の者に伝つて、孫(祖父の口癖に言つた)が馬を引張つて来て、又馬を引張つて行かれたとよと大評判の種となつた。
それから、三年。かれが到頭《たうとう》家屋敷を抵当に取られて、忌々《いま/\》しさの余《あまり》に、その家に火を放ち、露顕して長野の監獄に捕へらるゝ迄其間の行為は、多くは暗黒と罪悪とばかりで、少しも改善の面影《おもかげ》を顕《あら》はさなかつたが、只《たゞ》一度……只一度次のやうな事があつた。
それは何でも其家屋の抵当に入つてから後の事だ相だが、ある日かれは金を借ようと思つて、上塩山《かみしほやま》の上尾《あげを》貞七の家を訪《たづ》ねた事があつた。この上尾貞七と謂《い》ふのは、根本三之助などと同じく、一時は非常に逆境に沈淪《ちんりん》して、村には殆ど身を措《お》く事が出来ぬ程に為《な》つた事のある男で、それから憤《いきどほり》を発して、江戸へ出て、廿年の間に、何う世の荒波を泳いだか、一万円近くの資産を作つて帰つて来て、今では上塩山第一の富豪《かねもち》と立てられる身分である。重右衛門が訪ねると、快く面会して、その用向の程を聞き、言ふがまゝに十五円ばかりの金を貸し、さて真面目な声で、貞七が、「実はお前さんの事は、兼ねて噂《うはさ》に聞いて知つて居つたが、生れた村といふものは、まことに狭いもので、とても其処に居ては、思ふやうな事は出来ない。私なども……覚えが有るが、村の人々に一度信用せられぬとなると、もう何んなに藻掻《もが》いても、とても其村では何うする事も出来なくなる。お前さんも随分村では悪い者のやうに言はれるが、何うだね、一奮発する気は無いか」
重右衛門は黙つて居る。
「私なども……それア、随分|酷《ひど》い眼に逢《あ》つた。親には見放される、兄弟には唾《つば》を吐き懸けられる、村の人にはてんから相手にされぬといふ始末で、夜逃の様にして村を出て行つたが、其時の悲しかつた事は今でも忘れない。あの倉沢の先の吹上《ふきあげ》の水の出て居る処があるが、あそこで、石に腰を懸けて、もうこれで村に帰つて来るか何《ど》うだかと思つた時は、情なくなつて涙が出て、いつそこゝで死んで了はうかとすら思つた程であつた。けれど……思返して、何うせ死ぬ位なら、江戸に行つて死ぬのも同じだ、死んだ積りで、量見を入れかへて、働いて見よう……とてく/\と歩き出したが、それが私の運の開け始めで、それでまア、兎《と》に角《かく》今の身分に為つた……」
「私なんざア、駄目でごす…‥」
と重右衛門は言つたが、其顔はおのづから垂れて、眼からは大きな涙がほろ/\と膝の上に落ちた。
「駄目な事があるものか。私などもお前さんの様に、其時は駄目だと思つた。けれどその駄目が今日のやうな身分になる始となつたぢやがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好《い》けない」
答の無いのに再び言葉を続《つ》いで、
「村の奴などは何とでも勝手に言はせて置くが好い。世の中は広いのだから、何も村に居なければならねえと言ふのでもねえ、男と生れたからにや、東京にでも出て一旗挙げて来る様で無けりや、話にも何にも為《な》らねえと言ふ者《もん》だ……」
重右衛門は殆ど情に堪へないといふ風で潮《うしほ》の如く漲《みなぎ》つて来る涙を辛うじて下唇を咬《か》みつゝ押へて居た。
「本当でごいすよ、私は決して自分に覚えの無《ね》え事を言ふんぢやねえんだから、……本当に一つ奮発さつしやれ、屹度《きつと》それや立身するに極つてるから」
「私は駄目でごす……」と涙の込み上げて来るのを押へて、「私ア、とても貴郎《あんた》の真似は出来ねえでごす。一体、もうこんな体格《からだ》でごいすだで」
「そんな事はあるものか」と貞七は口では言つたが、成程それで十分に奮発する事も出来ないのかと思ふと、一層同情の念が加はつて、愈《いよ/\》慰藉《ゐしや》して遣らずには居られなくなつた。
「本当にそんな事は無い。世の中にはお前さんなどよりも数等|利《き》かぬ体で、立派な事業を為た人はいくらもある。盲目《めくら》で学者になつた塙検校《はなはけんげう》と言ふ人も居るし、跛足《びつこ》で大金持に為つた大俣《おほまた》の惣七といふ
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