ま》く用ひられると、中々大した事業をも為るし、人の眼を驚かす程の偉功をも建てる事が出来るのだけれど、惜しい事には、この男にはこれを行ふ力が欠けて居る。先天的に欠けて居る。この男には「自分は不具者《かたはもの》、自分は普通の人間と肩を並べることが出来ぬ不具もの」といふ考が、小児《こども》の中からその頭脳に浸《し》み込んで居て、何かすぐれた事でも為ようと思ふと、直ぐその悲しむべき考が脳を衝《つ》いて上つて来る。そしてこの不具者といふ消極的思想が言ふべからざる不快の念をその熱情の唯中に、丁度氷でもあるかのやうに、極めて烈しく打込んで行く。この不快の念、これが起るほど、かれには辛《つら》いことはなく、又これが起るほど、かれには忌々《いま/\》しい事はない。何故《なぜ》自分は不具に生れたか、何故自分は他の人と同じ天分を受ける事が出来なかつたか。
 親が憎い、己《おれ》を不具に生み付けた親が憎い。となると、自分の全身には殆《ほとん》ど火焔《くわえん》を帯びた不動尊も啻《たゞ》ならざる、憎悪《ぞうを》、怨恨《ゑんこん》、嫉妬《しつと》などの徹骨の苦々しい情が、寸時もじつとして居られぬほどに簇《むらが》つて来て、口惜《くや》しくつて/\、忌々《いま/\》しくつて/\、出来るものならば、この天地を引裂《ひつさ》いて、この世の中を闇にして、それで、自分も真逆様《まつさかさま》にその暗い深い穴の中に落ちて行つたなら、何《ど》んなに心地が快《い》いだらうといふやうな浅ましい心が起る。
 かういふ時には、譬《たと》へ一銭の銅貨を持つて居らないでも、酒を飲まなければ、何うしても腹の中の虫が承知しない。仕方が無いから、居酒屋に飛んで行つて一杯飲む、二杯飲む。あとは一升、二升。
 重右衛門の為めには、女房が出来たのは余り好い事では無かつたが、もし二人の間に早く子供が生れたなら、或は重右衛門のこの腹の虫を全く医《いや》し得たかも知れぬ。けれど不幸にも一年の間に子をつくることが出来なかつた二人の仲は、次第に殺伐《さつばつ》に為《な》り、乱暴に為り、無遠慮になつて、そして、その場句《あげく》には、泣声、尖声《とがりごゑ》を出しての大立廻。それも度重なつては、犬の喧嘩と振向いて見るものなく、女房の顔には殆ど生傷《なまきず》が絶えぬといふやうな寧《むし》ろ浅ましい境遇に陥つて行つた。
 その結果として、折角身持が治《をさま》り懸けた重右衛門が再び遊廓に足を踏み入れるやうに為り、少しく手を下し始めた荒廃した田地の開墾が全く委棄《ゐき》せられて了つたのも、これも余儀ない次第であらう。
 ※[#「にんべん+尚」、第3水準1−14−30]《も》し、この危機に処して、一家の女房たるものが、少しく怜悧《れいり》であつたならば、狂瀾《きやうらん》を既に倒るゝに翻《ひるがへ》し、危難を未《いま》だ来らざるに拒《ふせ》ぐは、さして難い事では無いのである。が、天は不幸なるこの重右衛門にこの纔《わづ》かなる恩恵《めぐみ》をすら惜んで与へなかつたので、尋常よりも尚《なほ》数等愚劣なるかれの妻は、この危機に際して、あらう事か、不貞腐《ふてくされ》にも、夫の留守を幸ひに、山に住む猟師《れふし》のあらくれ男と密通した。
 そして、それの露顕した時、
「だつて、その位《くれゐ》は当《あた》り前《めへ》だア。お前さアばか、勝手な真似して、己《うら》ら尤《とが》められる積《せき》はねえだ」
 とほざいた。
 重右衛門は怒つたの、怒らないのツて、
「何だ、この女《あま》!」
 と一喝して、いきなり、その髪を執《と》つて、引摺倒《ひきずりたふ》し、拳《こぶし》の痛くなるほど、滅茶苦茶に撲《なぐ》つた。そして半死半生になつた女房を尻目にかけて、其儘《そのまま》湯田中へと飛んで行つた。そして、酒……酒……酒。
 で、これからと言ふものは、重右衛門は全く身を持崩して了つたので、女郎買を為《す》るばかりではない、悪い山の猟師と墾意に為《な》つて、賭博《ばくち》を打つ、喧嘩を為る、茶屋女を買ふ、瞬《またゝ》く間にその残つて居る田地をも悉《こと/″\》く人手に渡して、猶《なほ》其上に宅地と家屋敷を抵当に、放蕩費《はうたうひ》を借りようとして居るのだが、誰もあんな無法者に金を貸して、抵当として家屋敷を押へた処が、跡で何んな苦情を持出さぬものでもないと、恐毛《おぞけ》振つて相手に為《せ》ぬので、そればかりは猶其後|少時《しばし》、かれの所有権ある不動産として残つて居た。
 ある時かういふ奇談がある。
 かれはその三日前ばかりから、湯田中に流連《ゐつゞけ》して、いつもの馴染《なじみ》を買つて居たが、さて帰らうとして、それに払ふべき金が無い。仕方が無いから、苦情やら忌味《いやみ》やらを言はれ/\、三里の山道を妓夫《ぎふ》を引張
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