男もある。お前さんの体位で、そんな弱い事を言つて居ては仕方がない。本当に一つ……遣つて見さつしやる気は無えかね。私ア、東京にも随分知つてる人も居るだて、一生懸命に為る積なら、いくらも世話は為て遣るだが」
「難有《ありがた》い、さう仰《おつしや》つて下さる人は、貴郎ばかり。決して……決して」と重右衛門は言葉を涙につかへさせながら、「決して忘れない、この御厚恩は! けれど私ア、駄目でごす。体格《からだ》さへかうでなければ、今までこんなにして村にまご/\して居るんぢや御座《ごア》せんが……。私は駄目でごす……」
 と又涙をほろ/\と落した。
 これは貞七の後での話だが実際その時は気の毒に為つて、あんな弱い憐れむべき者を村では何故《なぜ》あのやうに虐待するのであらう。元はと言へば気ばかり有つて、体が自由にならぬから、それで彼様《あん》な自暴自棄《やけ》な真似を為《す》るのであるのに……と心から同情を表《へう》さずには居られなかつたといふ事だ。実際、重右衛門だとて、人間だから、今のやうな乱暴を働いても、元はその位のやさしい処があつたかも知れない。けれどその体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造つたと共に、その性質も亦その罪悪の上に大なる影響を与へたに相違ないと、自分は友の話を聞きながら、つくづく心の中に思つた。

       *     *     *

 此後の重右衛門の歴史は只々《たゞ/\》驚くべき罪悪ばかり、抵当に取られた自分の家が残念だとて、火を放《つ》けて、獄に投ぜられ、六年経つて出て来たが、村の人の幾らか好くなつたらうと望を属《しよく》して居たのにも拘《かゝは》らず、相変らず無頼《ぶらい》で、放蕩《はうたう》で後悔を為るどころか一層大胆に悪事を行つて、殆ど傍若無人といふ有様であつた。其翌年、賭博《とばく》現行犯で長野へ引かれ、一年ほどまた臭い飯を食ふ事になつたが、二度目に帰つて来た時は、もう村でも何うする事も出来ない程の悪漢《わるもの》に成り済《すま》して、家も無いものだから今の堤下《どてした》に乞食《こじき》の住むやうな小屋を造つて、其処に気の合つた悪党ばかり寄せ集め、米が無くなると、何処の家にでもお構ひなしに、一升米を貸して呉れ、二升米を貸して呉れと、平気な面《つら》して貰ひに行く。そして、少しでも厭な素振を見せると、それなら考があるから呉れなくても好いと威嚇《おど》すのが習《ならひ》。村方では又火でも放《つ》けられては……と思ふから、仕方なしに、言ふまゝに呉れて遣る。すると好気《いゝき》に為つて、幅《はゞ》で、大風呂敷を携《たづさ》へて貰つて歩くといふ始末。殆ど村でも持余した。それがまだ其中は好かつたが、ある時ふと其感情を損《そこ》ねてからと言ふものは、重右衛門|大童《おほわらは》になつて怒つて、「何だ、この重右衛門一人、村で養つて行けぬと謂《い》ふのか。そんな吝《けち》くさい村だら、片端から焼払つて了へ」
 と酔客の如く大声で怒鳴つて歩いた。
 で、今回の放火騒動《ひつけさわぎ》。

     九

 山県の家の全焼したあくる日は、益々警戒に警戒を加へて、重右衛門の行為は勿論《もちろん》、その娘ツ子の一挙一動、何処《どこ》に行つた、彼処《かしこ》に行つたといふ事まで少しも注意を怠らなかつた。否、消防の人数を加へ、夜番の若者を増して、十五分毎には柝木《ひやうしぎ》と忍びとが代る/″\必ず廻つて歩くといふ、これならば何《ど》んな天魔でも容易に手を下す事が出来まいと思はれる許《ばかり》の警戒を加へて居て、それは中々一通の警戒ではないのであつた。であるのに、その厳しい防禦線《ばうぎよせん》の間を何う巧《たくみ》に潜つてか、其夜の十時少し過ぎと云ふに、何か変な臭ひがすると思ふ間もなく、ふす/\と怪しい音がするので、まだ今寝たばかりの雨戸を繰つて見ると、これはそも驚くまじき事か、火の粉《こ》が降るやうに満面に吹き附けて、すぐ下の家屋の窓からは、黒く黄《きいろ》い烟《けむ》と赤い長い火の影とが……
「火事だア、火事だア」
 とこの世も終りと云はぬばかりの絶望の叫喚《さけび》が凄《すさま》じく聞えた。
 自分は慌《あわ》てて、跣足《はだし》で庭に飛び出した。下の家とは僅《わづ》か十間位しか離れて居らぬので、母屋《おもや》では既に大騒を遣つて居る様子で、やれ水を運べの桶《をけ》を持つて来いのと老主人が声を限りに指揮《さしづ》する気勢《けはひ》が分明《はつきり》と手に取るやうに聞える。自分もこの危急の場合に際して、何か手助になる事もと思つて、兎《と》に角《かく》母屋の方に廻つて見たが、元より不知案内の身の、何う為る事も出来ぬので、寧《むし》ろ足手纏《あしてまと》ひに為らぬ方が得策と、其儘《そのまゝ》土蔵の前の明地《あきち》に引返して
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