由が無くてはならぬ。その理由は先天的性質か、それとも又境遇から起つた事か。
 種々に空想を逞《たくまし》うしたが、未だ其人をさへ見た事の無い身の、完全にそれを断定することが何うして出来よう。遂《つひ》に思切つて、そして帰宅すべく家路に就いた。路は昼間|小僮《せうどう》に案内して貰つて知つて居るから別段甚しく迷ひもせずに、やがて緑樹の欝蒼《こんもり》と生ひ茂つた、月の光の満足にさし透《とほ》らぬ、少しく小暗《をぐら》い阪道へとかゝつて来た。村の方ではまだ騒いで居ると見えて、折々人声は聞えるけれど、此の四辺《あたり》はひつそりと沈まり返つて、木《こ》の葉《は》の戦《そよ》ぐ音すら聞えぬ。自分は月の光の地上に織り出した樹の影を踏みながら、阪の中段に構へられてある一軒の農家の方へと只《たゞ》無意味に近づいて行つた。
 すると、その家の垣根の前に小さな人の影があつて、低頭《うつぶき》になつて頻りに何か為て居るではないか。勿論家の蔭であるから、それと分明《はつきり》とは解らぬが、その影によつて判断すると、それは確かに大人で無いといふ事がよく解る。自分は立留つた。そして樹の蔭に身を潜めて、暫《しば》しその為様《せんやう》を見て居た。
 ぱツとマッチを擦《す》る音!
 同時に
「誰だ!」
 と叫んで自分は走り寄つた。けれどその影の敏捷《びんせふ》なる、とても人間業《にんげんわざ》とは思はれぬばかりに、走寄る自分の袖《そで》の下をすり抜けて、電光《いなづま》の如く傍の森の中に身を没《かく》して了つた。跡には石油を灑《そゝ》いだ材料に火が移つて盛《さかん》に燃え出した。
「火事だ、火事だア」
 と自分は声を限りに叫んだ。

     八

 藤田重右衛門と言ふのは、昔は村でも中々の家柄で祖父の代までは田の十町も所有して、小作人の七八人も遣《つか》つた事のある身分だといふことである。家は丁度《ちやうど》尾谷川に臨んだ一帯の平地にあつて、樫《かし》の疎《まば》らな並樹《なみき》がぐるりと其の周囲を囲んで居る奥に、一|棟《むね》の母屋《おもや》、土蔵、物置と、普請《ふしん》も尋常《よのつね》よりは堅く出来て居て、村に何か事のある時には、その祖父といふ人は必ず総代か世話人に選ばれるといふ程の名望家であつた。現に根本三之助の乱暴を働いた頃にも、その村の相談役で、千曲川《ちくまがは》に投込《はふりこ》んで了《しま》へと決議した人の一人であつたといふ。性質の穏かな、言葉数の少ない、慈愛心の深い人で、殊に学問――と謂《い》ふ程でも無いが、御家流《おいへりう》の字が村にも匹敵《ひつてき》するものが無い程上手で、他村への交渉、飯山藩の武士への文通などは皆この人に頼んで書いて貰ふのが殆ど例になつて居たといふ事である。この人は千曲川の対岸の大俣《おほまた》といふ処から、妻を娶《めと》つたが、この妻といふ人も至極好人物で、貧乏者にはよく米を遣つたり、金銭を施したりして、年が老《と》つてからは、寺参りをのみ課業として、全く後生《ごしやう》を願ふといふ念より外に他《ほか》は無かつた。であるのに、僅《わづ》か一代を隔てて、何うしてこんな不幸がその藤田一家を襲つたのであらうか。何うしてその祖父祖母の孫に今の重右衛門のやうな、乱暴|無慚《むざん》の人間が出たのであらうか。
 その優しい正しい祖父祖母の問に、仮令《たとへ》女でも好いから、まことの血統を帯びた子といふ者が有つたなら、決してこんな事は無かつたらうとは、村でも心ある者の常に口に言ふ所であるが、不幸にもその祖父祖母の間には一人の子供も無かつたので、藤田の系統《けつとう》を継《つ》がしむる為めに、二人は他の家から養子を為なければならなかつた。今の重右衛門の父と言ふのは、芋沢のさる大尽の次男で、母は村の杉坂正五郎といふものの三女である。何方《どちら》も左程悪い人間と言ふではないが、否、現に今も子息《むすこ》の事を苦にして、村の者に顔を合せるのも恥しいと山の中に隠れて出て来ぬといふやうな寧《むし》ろ正直な人間ではあるが、さりとて、又、祖父祖母のやうな卓《すぐ》れて美しい性質は夫婦とも露ばかりも持つて居らなかつたので、母方の伯父《をぢ》といふ人は人殺をして斬罪《ざんざい》に処せられたといふ悪い歴史を持つて居るのであつた。で、この夫婦養子の間《なか》に間もなく出来たのが、今の重右衛門。子の無い処の孫であるから、祖父祖母の寵愛《ちようあい》は一方《ひとかた》ではなく、一にも孫、二にも孫と畳にも置かぬほどにちやほやして、その寵愛する様は、他所目《よそめ》にも可笑《をか》しい程であつたといふ。処が、この最愛の孫に一つ悲むべきことがある。それは生れながらにして、腸の一部が睾丸《かうぐわん》に下りて居る事で、何うかしてこの大睾丸《おほきんたま》
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