を治《なほ》して遣《や》る方法は無いかと、長野まで態々《わざ/\》出懸けて、いろ/\医者にも掛けて見たけれど、まだ其頃は医術も開けて居らぬ時代の事とて、一時は腸に収まつて居ても、又何かの拍子で忽地《たちまち》元に復して了ふので、いくら可愛想に思つても、何《ど》う為《す》る事も出来なかつた。
 これが又一層|不便《ふびん》を増すの料となつて、孫や孫やと、その祖父祖母の寵愛は益《ます/\》太甚《はなはだ》しく、四歳《よつ》五歳《いつゝ》、六歳《むつ》は、夢のやうに掌《たなごころ》の中に過ぎて、段々その性質があらはれて来た。けれど、子供の時分には、只非常に意地の強いといふばかりで、別段これと言つて他の童《わらべ》に異つたところも無かつたといふ事だが、それでも今の老人の中には、重右衛門の子供にも似ぬ、一種|茫然《ぼんやり》したやうな、しつかりしたやうな、要領を得ない処があるのを記憶して居て、どうもあの子は昔から変つて居ると思つたと言ふ者もある。が、概して他の童にさしたる相違が無かつたといふのが、一般の評であつた。山県の総領の兄などはその幼い頃の遊び夥伴《なかま》で、よく一所に蜻蛉《とんぼ》を交《つる》ませに行つたり、草を摘みに行つたり、山葡萄《やまぶだう》を採《と》りに行つたり為た事があるといふが、今で、一番記憶に残つて居るのは、鎮守の境内で、鬼事《おにごと》を為る時、重右衛門は睾丸が大いものだから、いつも十分に駆ける事が出来ず、始終中《しよつちゆう》鬼にばかり為《な》つて居たといふ事と、山茱萸《やまぐみ》を採りに三峯に行つた時、その大睾丸を蜂に食はれて、家に帰るまで泣き続けて居たといふ事と、今一つ、よく大睾丸を材料《たね》にして、いろ/\渾名《あざな》を付けたり、悪口を言つたり為《す》るものだから、終《しまひ》にはそれを言ひ始めると、厭《いや》な顔をして、折角《せつかく》楽しげに遊んで居たのも直ぐ止めて帰つて了ふやうになつたといふ事位のものであるさうな。けれど其先天的不具がかれの一生の上に非常に悲劇の材料と為つたのは事実で、人間と生れて、これほど不幸福《ふしあわせ》なものは有るまい。それから愛情の過度、これも確かにかれの今日の境遇に陥つた一つの大なる原因で、大きくなる迄、孫や、孫やとやさしい祖父にちやほやされて、一時村の遊び夥伴《なかま》の中に、重右衛門と名を呼ぶ者はなく、孫や、孫やで通つたなども、かれの悲劇を思ふ人の有力なる材料になるに相違ない。
 月日は流るゝ如く過ぎて、早くも渠《かれ》は十七の若者となつた。其年の春、祖母は老病で死んで了つたが、此年ほど藤田家に取つて運の悪い年は無かつたので、其初夏には、父親が今年こそはと見当を付けて、連年の養蚕《やうさん》の失敗を恢復《くわいふく》しようと、非常に手を拡《ひろ》げて養《か》つた蚕が、気候の具合で、すつかり外《はづ》れて、一時に田地の半分ほども人手に渡して了ふといふ始末。かてて加へて、妻の持病の子宮が再発して、枕も上らず臥《ふ》せつて居ると、父親は又父親で、失敗の自棄《やけ》を医《いや》さん為め、長野の遊廓にありもせぬ金を工面して、五日も六日も流連《ゐつゞけ》して帰らぬので、年を老《と》つた、人の好い七十近い祖父が、独《ひと》りでそれを心配して、孫や孫やと頻《しき》りに重右衛門ばかりを力にして、何うか貴様は、親父《おやぢ》のやうに意気地なしには為つて呉れるな、祖父《ぢいさん》の代の田地《でんち》を何うか元のやうに恢復《くわいふく》して呉れと、殆ど口癖のやうに言つて居た。
 御存じでは御座るまいが、村には若者の遊び場所と言ふやうなものがあつて、(自分は根本行輔の口からこの物語を聞いて居るので)昼間の職業《しごと》を終つて夕飯を済すと、いつも其処に行つて、娘の子の話やら、喧嘩の話やら、賭博《ばくち》の話やら、いろ/\くだらぬ話を為て、傍《かたは》ら物を食つたり、酒を飲んだりする処がある。今では学校が出来て、教育の大切な事が誰の頭脳《あたま》にも入つて来たから、さういふ下らぬ遊を為《す》るものも少く為《な》つたけれど、まだ私等の頃までは、随分それが盛んで、やれ平右衛門の二番娘は容色《きりやう》が好いの、やれ総助の処の末の娘が段々色気が付いて来たのと下らぬ噂を為《する》ばかりならまだ好いが、若者と若者との間にその娘に就いての鞘当《さやあて》が始まる、口論が始まる、喧嘩が始まる、皿が飛ぶ、徳利が破《こは》れるといふ大活劇を演ずることも度々で、それは随分|弊《へい》が多かつた。殊に其遊び場所の最も悪い弊と言ふのは、その若者の群の中にも自《おのづ》から勢力の有るものと、無いものとの区別があつて、其勢力のある者が、まだ十六七の若い青年を面白半分に悪いところに誘つて行く、これが第一の弊だと思ふ。

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