、火事の後の空はいよ/\澄んで、山中の月の光の美しさは、此の世のものとは思はれぬばかりであるから、少し渓流の畔《ほとり》でも歩いて見ようと、其儘《そのまゝ》焼跡をくるりと廻つて、柴の垣の続いて居る細い道を静かに村の方へと出た。
 村へ出て見ると、一軒として大騒を遣つて居らぬ家は無く、鎮火と聞いて孰《いづれ》も胸を安めたやうなものの、かう毎晩の様に火事があつては、とても安閑として生活して居られぬといふそは/\した不安の情が村一体に満ち渡つて、家々の角には、婦《をんな》やら、老人《としより》やらが、寄つて、集《たか》つて、いろ/\喧《かしま》しく語り合つて居る。
「本当にかう毎晩のやうに火事があつては、緩《ゆつ》くり寝ても居られねえだ。本当に早く何《ど》うか為《し》て貰はねえでは……」
「駐在所ぢや、一体《いつてい》何を為て居るんだか、はア、困つた事だ」
 前の老人らしい声で、
「駐在所で、仕末が出来《でけ》ねえだら、長野へつゝ走つて、何うかして貰ふが好《え》いし、長野でも何うも出来ねえけりや、仕方が無えから、村の顔役が集《たか》つて、千曲川へでも投込《はふりこ》んで了ふが好《え》いだ」
「本当に左様《さう》でも為《し》て貰はねいぢや……」
 猶《なほ》少し行くと、

「まご/\してると、己《おら》が家《とこ》もつん燃されて了ふかも知んねえだ。本当にまア、何うしたら好い事だか」
「困つた事だ」
 とさも困つたといふやうな調子。
 聞流して又少し歩いた。
「重右衛門がこんな騒動《さわぎ》を打始《ぶつぱじ》めようとは夢にも思ひ懸けなかつたゞ。あれの幼い頃はお互《たげへ》にまだ記憶《おぼ》えて居るだが、そんなに悪い餓鬼《がき》でも無かつたゞが……」
 かう言つたのは年の頃|大凡《およそ》六十五六の皺《しわ》くちやの老婆であつた。それに向つて立つて居るのも、これも同じく其年輩らしい老婆の姿で、今しも月の光にさも感に堪へぬといふ顔色《かほつき》を為《し》たが、前の老婆の言葉を受けて、「本当でごすよ。重右衛門は、妾《わし》の遠い親類筋だで、それでかう言ふのではごんせぬが、何アに、あれでも旨《うま》くさへ育てれや、こんな悪党にや為《な》りや仕ないんだす。一体|祖父様《ぢゝさま》が悪かつただす。余《あんま》り可愛がり過ぎたもんだで……」
「だから、子供《がき》を育てるのも、容易《ばか》には出来ねえだ」
 と他の老婆は言葉を合せた。
 自分は其前をも行過ぎた。
 すると、路の角に居酒屋らしいものがあつて、其処には洋燈《らんぷ》が明るく点《つ》いて居るが、中《うち》には七八人の村の若者が酒を飲んで、頻《しき》りに大きい声を立《たて》て居る。
 立留つて聞くと、
「重右衛門は火事の中何処に行つて居たツて?」
「奴か、奴ア、直き山県さんの下の家に行つて、火事見舞に来たとか、何とか言つて、酒の馳走になつてけつかつた。あの位図太い奴ア無いだ」
「さういふ時、思ふさま、酒|喰《くら》はして、ぐつと遣つて仕舞へば好いんだ」
「本当にそれが一番早道だア、と我《おら》ア、いつでも言ふんだけど、まさか、それも出来ねえと見えて、それを遣つて呉れる人が無えだ」
「忌々《いめ/\》しい奴だなア」
 と其中の一人が叫んだ。
 自分は又歩き出した。路が其処から川の方に曲つて居るので、それについて左に曲り、猶《なほ》半町ほど辿《たど》つて行くと、もう其処は尾谷川の崖《がけ》で、石に激する水声が、今迄|種々《いろ/\》な悪声を聞いた自分の耳に、殆《ほとん》ど天上の音楽の如く聞える。月はもう高くなつたので、渓流の半面はその美しい光に明かに輝いて居るが、向ふに偏《かたよ》つた半面には、また容易に其光が到着しさうにも見えぬ。自分は崖に凭《よ》つて、そして今夜の出来事を考へた。友の言葉やら、村の評判やらから綜合《そうがふ》して見ると、この事件の中心に為《な》つて居る重右衛門といふ男は確かに自暴自棄に陥つて居るに相違ないと自分は思つた。けれど何うして渠《かれ》はその自暴自棄の暗い境に陥つたのであらうか。先程の老婆の言ふ所によれば、祖父様が悪いのだ、あまり可愛がり過ぎたから、それで彼様《あん》な風に為つたのだと言ふけれど、単に愛情の過度といふのみで、それで人間が、己《おのれ》の故郷の家屋を焼くといふ程の烈しい暗黒の境《きやう》に陥るであらうか。殊に此村には一種の冒険の思想が満ち渡つて居て、もし単に故郷に容《い》れられぬといふばかりならば、根本の父のやうに、又は塩町の湯屋のやうに、憤《いきどほり》を発して他郷に出て、それで名誉を恢復《くわいふく》した例《ためし》は幾許《いくら》もある。であるのに、それを敢《あへ》て為《し》ようとも為《せ》ず、かうして故郷の人に反抗して居るといふのは、其処に何か理
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