に寂寞《せきばく》たる山中の村はいよ/\しんとして了つて、虫の音と、風の声と、水の流るゝ調べの外には更に何の物音も為《せ》ぬ。
一時間程経つた。
すると、不意に、この音も無くしんとした天地を破つて、銅鑼《どら》を叩いたなら、かういふ厭《いや》な音が為《す》るであらうと思はれる間の抜けたしかも急な鐘の乱打の響!
二人は愕然《ぎよつ》とした。
「又|遣付《やつつ》けた!」
と忌々《いま/\》しさうに叫んで、根本の父は一散に駆けて行つた。
「粂《くめ》さんの家《とこ》だア、粂さんの家だア」
と、誰か向ふの畔《あぜ》を走りながら、叫ぶ者がある。山県はちらと見たが、「あ、僕の家らしい!」と叫んで、そして跣足《はだし》の儘《まゝ》、慌《あわ》てて飛出した。
根本も続いて飛出した。
見ると、月の光に黒く出て居る鎮守の森の陰から、やゝ白けた一通の烟《けむり》が蜃気楼《しんきろう》のやうに勢よく立のぼつて、其中から紅《あか》い火が長い舌を吐いて、家の燃える音がぱち/\と凄《すさま》じく聞える。山際の寺の鐘も続いて烈しく鳴り始めた。
一散に自分も駆け出した。
七
田の畔《くろ》を越えて、丘の上を抜けて、谷川の流を横《よこぎ》つて、前から、後から、右から、左から、其方向に向つて走り行く人の群、それが丁度大海に集るごとく、鎮守の森の陰の路へと進んで来るので、平生《いつも》ならば人も滅多に来ない鎮守の森の裏山は全く人の影を以て填《うづ》められて了つた。自分は駆出す事は駆出したが、今日来たばかりで道の案内も好く知らぬ身の、余り飛出し過ぎて思ひも懸けぬ災難に逢《あ》つては為《な》らぬと思つたから、其儘少し離れた、小高いところに身を寄せて、無念ながら、手を束《つか》ねて、友の家の焼けるのをじつと見て居た。
眼前に広げられた一場の光景! 今燃えて居るのは丁度鎮守の森の東表に向つた、大きな家で、火は既にその屋《やね》に及んで居るけれど、まだすつかり燃え出したといふ程ではなく、半分燃え懸けた窓からは、燻《くすぶ》つた黒い色の烟《けむり》がもく/\と凄《すさま》じく迸《ほとばし》り出でて、それがすつかり火に為つたならば、下の二三軒の家屋は勿論《もちろん》、前の白壁の土蔵も危くはありはせぬかと思はれるばかりであつた。けれど消防組はまだ一向見えぬ様子で、昼間盛んに稽古して居たその新調の喞筒《ポンプ》も、まだ其現場に駆け付けては居らなかつた。暫時《しばらく》すると、燻《くすぶ》つて居た火は恐ろしく凄じい勢でぱつと屋根の上に燃え上る……と……四辺《あたり》が急に真昼のやうに明くなつて、其処等に立つて居る人の影、辛《から》うじて運び出した二三の家具、其他いろ/\の悲惨な光景が、極めて明かに顕《あら》はれて見える。火は既に全屋に及んで、その火の子の高く騰《あが》るさまの凄じさと言つたら、無い。幸ひに風が無いので、火勢は左程《さほど》四方には蔓延《まんえん》せぬけれど、下の家の危さは、見て居ても、殆ど冷汗が出るばかりである。
「喞筒《ポンプ》!」
と叫ぶ声。
「おい、喞筒は何を為《し》て居るだアーい」
と長く曳いて叫ぶ声。
けれど、本当に何うしたのか、喞筒はまだ遣つて来るやうな様子も見えぬ。屋根の焼落つる度《たび》に、美しく火花を散した火の子が高く上つて、やゝ風を得た火勢は、今度は今迄と違つて士蔵の方へと片靡《かたなび》きがして来た。土蔵の上には五六人ばかり人が上つて頻《しき》りに拒《ふせ》いで居た様子だつたが、これに面喰《めんくら》つてか、一人/\下りて、今は一つの黒い影を止めなくなつて了つた。
「熱つくて堪らねえ」
「まご/\して居ると、焼死んで了ふア」
「何うしやがつたんだ。一体、喞筒《ポンプ》は? 気が利《き》かねえ奴等でねえか」
と土蔵から下りて来た人の会話らしい声がすぐ自分の脚下《あしもと》に聞える。
と、思ふと、向ふの低い窪地《くぼち》に簇々《むら/\》と十五六人|許《ばかり》の人数が顕《あら》はれて、其処に辛うじて運んで来たらしいのは昼間見たその新調の喞筒である。
やがて火光に向つて一道の水が烈しく迸出《へいしゆつ》したのを自分は認めた。
「喞筒《ポンプ》確《しつ》かり頼むぞい!」
「確かり遣れ」
「喞筒!」
と彼方《あつち》此方《こつち》から声が懸る。
で、その喞筒《ポンプ》の水の方向は或は右に、或は左に、多くは正鵠《せいこく》を得なかつたにも拘《かゝは》らず、兎《と》に角《かく》、多量の水がその方面に向つて灑《そゝ》がれたのと、幸ひ風があまり無かつたのとで、下なる低い家屋にも、前なる高い土蔵にもその火を移す事なしに、首尾よく鎮火したのである。
それが丁度十時二十分。
疲れたから、帰つて、寝ようかとも思つたが
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