《とか》したやうな空に巍然《ぎぜん》として聳《そび》えて居て、小山を開墾した畑には蕎麦《そば》の花がもうそろ/\その白い美しい光景を呈し始めようとして居た。空気は此上も無く澄んで、四面の山の涼しい風が何処から吹いて来るとも無く、自分の汗になつた肌を折々襲つて行くその心地好さ! これは山でなければ得られぬ賜《たまもの》と、自分はそれを真袖《まそで》に受けて、思ふさま山の清い※[#「冫+影」、333−上−9]気《けいき》を吸つた。十年都会の塵にまみれて、些《いさゝか》の清い空気をだに得ることの出来なかつた自分は、長野の先の牟礼《むれ》の停車場で下りた時、その下を流るゝ鳥居川の清渓と四辺《あたり》を囲む青山の姿とに、既に一方《ひとかた》ならず心を奪はれて、世にもかゝる自然の風景もあることかと坐《そゞ》ろに心を動かしたのであるが、渓橋を渡り、山嶺《さんれい》をめぐり、進めば進むほど、行けば行くだけ、自然の大景は丁度《ちやうど》尽きざる絵巻物を広げるが如く、自分の眼前に現はれて来るので、自分は益々興を感じて、成程これでは友が誇つたのも無理ではないと心《しん》から思つた。
小山と小山との間に一道の渓流《けいりう》、それを渡り終つて、猶其前に聳えて居る小さい嶺《みね》を登つて行くと、段々|四面《あたり》の眺望《てうばう》がひろくなつて、今迄越えて来た山と山との間の路が地図でも見るやうに分明《はつきり》指点せらるゝと共に、この小嶺《せうれい》に塞《ふさ》がれて見得なかつた前面の風景も、俄《には》かにパノラマにでも向つたやうにはつと自分の眼前に広げられた。
上州境の連山が丁度《ちやうど》屏風《びやうぶ》を立廻したやうに一帯に連《つらな》り渡つて、それが藍《あゐ》でも無ければ紫でも無い一種の色に彩《いろど》られて、ふは/\とした羊の毛のやうな白い雲が其|絶巓《ぜつてん》からいくらも離れぬあたりに極めて美しく靡《なび》いて居る工合、何とも言ヘぬ。そして自分のすぐ前の山の、又その向ふの山を越えて、遙《はる》かに帯を曳《ひ》いたやうな銀《しろがね》の色のきらめき、あれは恐らく千曲《ちくま》の流れで、その又向ふに続々と黒い人家の見えるのは、大方中野の町であらう。と思つて、ふと少し右に眼を移すと、千曲川の沿岸とも覚しきあたりに、絶大なる奇山の姿!
何と言ふ山か知らん……と自分は少時《しばらく》その好景に見惚《みと》れて居た。
ふと背負籠《しよひかご》を負つた中老漢《ちゆうおやぢ》が向ふから上《のぼ》つて来たので、
「あの山は?」
と指《ゆびさ》して尋ねた。
「あれでがすか、あれははア、飯山《いひやま》の向ふの高社山《かうしやざん》と申しやすだア」
あれが高社山! よく友の口から聞いたと思ふと、其時の事が簇々《むら/\》と思ひ出されて今更其頃が懐《なつ》かしい。其頃は其仙境を何時《いつ》尋ねて行かれるであらうか、或は一生尋ねて行く事が出来ぬかも知れぬなどと思つて居たが、五年後の今日かうして尋ねて行くとは、如何に縁の深い事であらう。
「塩山村《しほやまむら》へはまだ余程あるかね」
「塩山へかね」と背負籠《しよひかご》を傍《かたはら》の石の上に下して、腰を伸しながら、「塩山へは此処からまだ二里と言ひやすだ。あの向ふの大《でか》い山の下に小《こまか》い山が幾箇《いくつ》となく御座らつせう。その山中《やまんなか》だアに……」
「塩山に根本といふ家はあるかね」
と自分は更に尋ねた。
「根本………御座らしやるとも、根本ていのア、塩山では一等の丸持大尽《まるもちだいじん》でごわすア」と答へて、更に、「で貴郎《あんた》ア、根本さア処《とけ》の御客様《おきやくさん》かね」
「其処に行輔《かうすけ》といふ子息《むすこ》が有るだらう?」
「御座らつしやる」と言つて吸ひ懸けた烟草《たばこ》の烟《けむり》を不細工な獅子鼻からすうと出し、「大尽どこの子息に似合ねえ堅い子息でごわすア、何でも東京へ行かしつた時にア、それでも四五百も遣つたといふ噂だが、それから堅くなつて、今ぢや村でも評判ものでごわす」
「一体|汝《おまへ》は何処だね? 塩山かね」
「いんにや、塩山ではごへん、その一つ前の村の倉沢でごわす」
「もう根本は女房《かみさん》を持つたらう」
「嚊《かゝ》さまでごわすか、持ちましたとも、……えいと……あれは確か三年前で、芋子村《いもこむら》の大尽の娘さアだ」
「子供は?」
「まだごわしねえ、もう出来さうな者だつて此間《こねえだ》も父様《とつさま》えらく心配《しんぺい》のう為《し》で御座らしやつたけ」
「それでは山県といふのも知つてるだらう」
「山県――はア学校の先生|様《さん》だア、私等が餓児《がき》も先生様の御蔭にはえらくなつてるだア。好《え》い優しい人で、はア」
「
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