好時節になると、自分はよく四谷の大通を散歩して、帰りには必ずその柳のある湯屋に寄つてみる。すると、二階の上から田舎の太神楽《だいかぐら》に合せる横笛の声がれろれろ、ひーひやらりと面白く聞えて、月がその物干台の上に水の如く照り渡つて、その背の低い山県の姿が、明かな夜の色の中に黒くくつきりと際立《きはだ》つて見える。
「おい、山県君!」
 と下から声を懸ける。
 と……笛の音《ね》がばつたり止む。
「誰だか」
 と続いて田舎訛《ゐなかなまり》の声。
「僕、僕、富山《とみやま》!」
「富山君か、上《あが》んなはれ」
 その物干台! その月の照り渡つた物干台の上で、自分等は何んなにその美しい夜を語り合つたであらうか。今頃は私等の故郷でもあの月が三峯《みつみね》の上に出て、鎮守の社《やしろ》の広場には、若い男や若い女がその光を浴びながら何の彼《か》のと言つて遊び戯れて居るであらう。斑尾山《まだらをさん》の影が黒くなつて、村の家々より漏るゝ微かな燈火《ともしび》の光! あゝ帰りたい、帰りたいと山県は懐郷の情に堪へないやうに幾度もいふ。自分も何んなにその静かな山中の村を想像したであらうか。
 半年程立つた頃、自分は又その同じ村の青年の脱走者を二人から紹介された。顔の丸い、髪の前額《ひたひ》を蔽《おほ》つた二十一二の青年で、これは村でも有数の富豪の息子であるといふ事であつた。けれど自分は杉山からその新脱走者の家の経歴を聞いたばかり、別段二人ほど懇意にはならなかつた。杉山の言ふ所によると、その根本《ねもと》(青年の名は根本|行輔《かうすけ》と言ふので)の家柄は村では左程重きを置かれて居ないので、今でこそ村第一の富豪《かねもち》などと威張つて居るが、親父の代までは人が碌々《ろく/\》交際も為《し》ない程の貧しい身分で、その親父は現に村の鎮守の賽銭《さいせん》を盗んだ事があつて、その二十七八の頃には三之助(親父の名)は村の為めに不利な事ばかり企らんでならぬ故いつそ筵《こも》に巻いて千曲川《ちくまがは》に流して了はうではないかと故老の間に相談されたほどの悪漢であつたといふ事である。それがある時、其頃の村の俄分限《にはかぶんげん》の山田といふ老人に、貴様も好い年齢《とし》をして、いつまで村の衆に厄介を懸けて居るといふ事もあるまい。もう貴様も到底《たうてい》村では一旗挙げる事は難しい身分だから、一つ奮発して、江戸へ行つて皆の衆を見返つて遣らうといふ気は無いか。私《わし》などを見なされ、一度は随分村の衆に馬鹿にされて、口惜しい/\と思つたが、今では何うやらかういふ身になつて、人にも立てられる様になつた。三之助、貴様は本当に一つ奮発して見る気は無いか。と懇々説諭されて、鬼の眼に涙を拭き/\、餞別《せんべつ》に貰つた金を路銀《ろぎん》にして、それで江戸へ出て来たが、二十年の間に、何う転んで、何う起きたか、五千といふ金を攫《つか》んで帰つて来て、田地を買ふ、養蚕《やうさん》を為る、金貸を始める、瞬《またゝ》く間に一万の富豪《しんだい》! だから、村では根本の家をあまり好くは言はぬので、その賽銭箱の切取つた処には今でも根本三之助窃盗と小さく書いてあつて、金を二百円出すから、何うかそれを造り更《か》へて呉れろと頼んでも、村の故老は断乎《だんこ》としてそれに応じようともせぬとの事である。その長男がまた新しい青雲を望んで、ひそかに国を脱走するといふのは……何と面白い話では無いか。
 けれど自分がこの三人と交際したのは纔《わづ》か二年に過ぎなかつた。山県は家が余り富んで居ない為め、学資が続かないで失望して帰つて了ふし、根本は家から迎ひの者が来て無理往生に連れて行つて了ふし、唯一人杉山ばかり自分と一緒に其志を固く執《と》つて、翌年の四月陸軍幼年学校の試験に応じたが自分は体格で不合格、杉山は亦《また》学科で失敗して、それからといふものは自分等の間にもいつか交通が疎《うと》くなり、遂《つひ》には全く手紙の交際になつて了つた。杉山は猶《なほ》暫く東京に滞《とゞま》つて居た様子であつたが、耳にするその近状はいづれも面白からぬ事ばかりで、やれ吉原通《よしはらがよひ》を始めたの、筆屋の娘を何うかしたの、日本授産館の山師に騙《だま》されて財産を半分程|失《な》くしたのと全く自暴自棄に陥つたやうな話であつた。それから一年程経つて失敗に失敗を重ねて、茫然《ぼんやり》田舎に帰つて行つた相だが、間もなく徴兵の鬮《くじ》が当つて高崎の兵営に入つたといふ噂《うはさ》を聞いた。

     四

 五年は夢の如く過ぎ去つた。
 其の五年目の夏のある静かな日の事であつた。自分は小山から小山の間へと縫ふやうに通じて居る路を喘《あへ》ぎ/\伝つて行くので、前には僧侶の趺坐《ふざ》したやうな山が藍《あゐ》を溶
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