それでは杉山は何うしてるね」
「えらく、貴郎ア、塩山の人の名前知つて御座らつしやるだア。貴郎ア、若い者等が東京に出た時懇意に為《な》すつて居た先生だかね……」
言懸けてじろ/\と自分の顔を見て、
「……杉山の子息……あれア、今は徴集されて戦争《いくさ》(日清戦争)に行つてるだ。あの山師にや、村ではもう懲々《こり/″\》して居るだア。長野に興業館といふ東京の山師の出店《でだな》見ていなものを押立《おつた》てて、薬材《くすり》で染物のう御始《おつぱじ》めるつて言つて、何も知らねえ村の者を騙《だま》くらかして、何でもはア五六千円も集めただア。それを皆な妾《めかけ》を置いたり、芸妓《げいしや》を家に引摺込《ひきずりこ》んだり、遊廓に毎晩のやうに行つたり、二月ばかりの中に滅茶/\にして仕舞つたゞア。……恐ろしい虚言家《うそつき》でナ、私等も既《すんで》の事|欺騙《だまくら》かされる処でごわした」
「家は今何うしてるね」
「家でごすか、余程あれの為めに金のう打遣《ぶつつか》つたでがすが爺様《とつさま》まだ確乎《しつかり》して御座らつしやるし、廿年前までは村一番の大尽だつたで、まだえらく落魄《おちぶれ》ねえで暮して御座るだ」
と言つたが、ふと思出した様に、
「塩山つていふ村は、昔からえらく変り者を出す所でナア、それが為めに身代《しんだい》を拵《こしら》へる者は無《ね》えではねいだが、困つた人間も随分出るだア」
「今でも困つた人間が居るかね」
中老漢《ちゆうおやぢ》は岩の上に卸した背負籠を担《にな》つて、其儘《そのまゝ》歩き出さうとして居たが、自分に尋ねられて、
「つい、今もそれで大騒ぎをして居るだア」
と言つた。
そして、その大騒の何を意味して居るかを語らずに、其儘急いで向ふへと下りて行つて了つた。自分は猶|少時《しばらく》其処に立つて、六年前の友が何んな生活を為《し》て居るであらうかといふ事、其妻は如何《いか》なる人で、其家は如何なる家で、その家庭は何んな具合であるかといふ事などを思ふと、種々《いろ/\》なる感想が自分の胸に潮《うしほ》のやうに集つて来て、其山中の村が何だか自分と深い宿縁を有《も》つて居るやうな気が為《し》て、何うも為《な》らぬ。
一時間後には、自分はもう其懐かしい村近く歩いて居た。成程山又山と友の言つたのも理《ことわり》と思はるゝばかりで、渓流はその重り合つた山の根を根気よく曲り曲つて流れて居るが、或ところには風情ある柴の組橋《くみはし》、或るところには竜《たつ》の住みさうな深い青淵《あをふち》、或は激湍《げきたん》沫《あわ》を吹いて盛夏|猶《なほ》寒しといふ白玉《はくぎよく》の渓《たにがは》、或は白簾《はくれん》虹《にじ》を掛けて全山皆動くがごとき飛瀑《ひばく》の響、自分は幾度足を留めて、幾度激賞の声を挙げたか知れぬ。で、その曲り曲つた渓流に添つて、涼しい水の調《しらべ》に耳を洗ひながら、猶三十分程も進んで行くと、前面《むかふ》が思ひも懸《か》けず俄《には》かに開けて、小山の丘陵のごとく起伏して居る間に、黄稲《くわうたう》の実れる田、蕎麦の花の白き畑、欝蒼《こんもり》と茂れる鎮守の森、ところどころに碁石を並べたやうに、散在して居る茅茸《かやぶき》の人家。
手帳の画がすぐ思出された。
あゝこの静かな村! この村に向つて、自分の空想勝なる胸は何んなに烈しく波打つたであらうか。六年間、思ひに思つて、さて今のこの一瞥《いちべつ》。
殊に、自分は世の塵の深きに泥《まみ》れ、久しく自然の美しさに焦《こが》れた身、それが今思ふさまその自然の美を占める事が出来る身となつたではないか。この静かな村には世に疲れた自分をやさしく慰めて呉れる友二人まであるではないか。
顧ると、夕日は既に低くなつて、後の山の影は速くその鎮守の森に及んで居る。壁はいよ/\深碧《ふかみどり》の色を加へて、野中の大杉の影はくつきりと線を引いたやうに、その午後の晴やかな空に聳《そび》えて居る。山県の家は何でもその大杉の陰と聞いて居たので、自分は眼を放つてじつと其方《そなた》を打見やつた。
静かな村!
五
と思つた途端、ふと自分の眼に入つたものがある。大杉の陰に簇々《むら/\》と十軒ばかりの人家が黒く連《つらな》つて居て、その向ふの一段高い処に小学校らしい大きな建物があるが、その広場とも覚しきあたりから、二道の白い水が、碧《みどり》なる大空に向つて、丁度大きな噴水器を仕掛たごとく、盛《さかん》に真直に迸出《へいしゆつ》して居る。
そしてその末が美しく夕日の光にかゞやき渡つて見える。
「あれは何だね」
折から子供を背負つた十歳《とを》ばかりの洟垂《はなたら》しの頑童《わんぱく》が傍《そば》に来たので、怪んで自分は尋ねた。
「あれア
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