放つて、其死体に取附いて泣いた一場の悲劇!
 其鋭い声が今も猶耳に聞える。
 午後になつて、漸《やうや》く長野から判事、検事、などが、警察官と一緒に遺つて来て臨検したが、その溺死した田池《たねけ》がいかにも狭く小さいので、いかに酔つたからとて、こんな所で独《ひと》りで溺れるといふ訳は無い。これには何か原因があるであらうと、中々事情が難かしくなつて、其時傍に居た二三人は、事に寄ると長野まで出なければならぬかも知れぬといふ有様。それにも拘らず溺死者の死体は外に怪しい箇処《ところ》も無いので、其儘受取人として名告《なの》つて出たかの娘つ子に下渡《さげわた》された。
 半日水中に浸けてあつたので、顔は水膨《みづぶく》れに気味悪くふくれ、眼は凄《すさま》じく一所を見つめ、鼻洟《はな》は半《なかば》開いた口に垂れ込み、だらりと大いなる睾丸《きんたま》をぶら下げたるその容体《ていたらく》、自分は思はず両手に顔を掩《おほ》つたのであつた。
「それにしても、娘《あま》つ子《つ》はあの死骸を何うしたであらう。村では、あの娘つ子の手に其死骸のある中は、寺には決して葬らせぬと言つて居つたが……」
 かう思つて自分は戸外《おもて》を見た。昨夜の月に似もやらぬ、今日は朝より曇り勝にて、今降り出すか降り出すかと危んで居たが、見ると既に雨になつて、打渡す深緑は悉《こと/″\》く湿《うるほ》ひ、灰色の雲は低く向ひの山の半腹までかゝつて、夏の雨には似つかぬ、しよぼ/\と烟《けぶ》るがごとき糠雨《ぬかあめ》の侘《わび》しさは譬《たと》へやうが無い。
 其処へ根本が不意に入つて来た。
 検死事件で一寸手離されず、彼方此方《あつちこつち》へと駈走つて居たが、漸《やうや》く何うにかなりさうになつたので、一先《ひとまづ》体を休めに帰つて来たとの事であつた。
「何うだね?」
 と聞くと、
「何アに、其様《そんな》に心配した程の事は無えでごす。警官も奴の悪党の事は知つて居るだアで、内々は道理《もつとも》だと承知してるでごすが、其処は職掌で、さう手軽く済ませる訳にも行かぬと見えて、それで彼様《あん》な事を言つたんですア」
「それで死骸は何うしたね」
「重右衛門のかね。あの娘《あま》つ子《つ》が引取つて行つたけれど、村では誰も構ひ手が無し、遠い親類筋のものは少しはあるが、皆な村を憚《はゞか》つて、世話を為《し》ようと言
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