な》い一枚の写生図を示し、これが私の家、これが杉山君の家、こゝにこんもりと茂つて居るのは村の鎮守、それから少し右に寄つて同じ木立《こだち》のあるのは安養寺といふ村の寺、私等の逃げて来たのは(かれ等は親の許さぬのに、青雲《せいうん》の志《こゝろざし》に堪へかねて脱走して来たのである)十二月の十三日の夜で、地上には雪が四五尺も積つて、それの堅く氷つてる上に、月が寒く美しく照り渡つて、何とも言へない光景だつた。私は杉山君と昼間約束して置いたから、鎮守の向ふに行つて待つて居ると、やがて杉山君は遣《や》つて来る。二人連れ立つて歩み出す。追手のかゝらぬやうに為《す》るには何でも夜の中に長野に行つて、明日の一番の汽車に乗らなければならぬ。と言ふので、一生懸命に歩いたが、村が見えなくなつた時は流石《さすが》に胸が少し迫つて、親達は嘸《さぞ》驚く事であらう。こんな無理な事を為《し》ないでも、打明けて頼んだなら、公然東京に出して呉れるであらうと思つた……などといふ事を自分に話した。自分はいよ/\空想を逞《たくまし》うして、其村、その静かな山の中の村に一度は是非行つて見度いと、其頃から自分の胸はその山中の一村落に向つて波打《なみうち》つゝあつたので……。猶《なほ》詳しく聞くと、その村には尾谷川《をたにがは》といふ清い渓流《けいりう》もあるといふ。その岸には水車が幾個となく懸つて居て、春は躑躅《つゝじ》、夏は卯《う》の花、秋は薄《すゝき》とその風情《ふぜい》に富んで居ることは画にも見ぬところである相《さう》な。又その村の山の畠には一面雪ならぬ蕎麦《そば》の花が咲き揃《そろ》つて、秋風のさびしく其上を吹き渡る具合など君でも行つたなら、何んなに立派な詩が出来るか知れぬとの事。あゝ本当にその仙境はどんな処であらうか。山と山とが重り合つて、其処に清い水が流れて、朴訥《ぼくとつ》な人間が鋤《すき》を荷《にな》つて夕日の影にてく/\と家路をさして帰つてゆく光景。それを想像すると、空想は空想に枝葉を添へて、何だか自分の眼の前には西洋の読本《リーダー》の中の仙女《フエリー》の故郷がちらついて何うも為《な》らぬ。
三
二人の寄寓して居る塩町の湯屋の二階、其処に間もなく自分は行くやうになつた、二階は十二畳敷|二間《ふたま》で、階段《はしご》を上つたところの一間の右の一隅《かたすみ》には、欅《け
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