へと行つた。一方稲の穂の豊年らしく垂れてゐる田、一方|甜瓜《まくはうり》の旨《うま》さうに熟して居る畠の間の細い路を爪先上りにだら/\とのぼつて行くと、丘と丘との重り合つた処の、やゝ低く凹《くぼ》んだ一帯の地に、一|棟《むね》の茅葺《かやぶき》屋根と一つの小さい白壁造の土蔵とがあつて、其後には欅《けやき》の十年ほど経《た》つた疎《まば》らな林、その周囲には、蕎麦《そば》や、胡瓜《きうり》や唐瓜《たうなす》や、玉蜀黍《たうもろこし》などを植ゑた畠、猶《なほ》近づくと、路の傍に田舎《ゐなか》には何処にも見懸ける不潔な肥料溜《こやしだめ》があつて、それから薪《まき》を積み重ねた小屋、雑草の井桁《ゐげた》の間に満遍なく生えて居る古い井《ゐど》、高く夕日の影に懸つて見える桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、337−下−13]《はねつるべ》、猶その前に、鍬《くは》や鋤《すき》を洗ふ為めに一間四方ばかり水溜が穿《うが》たれてあるが、これはこの地方に特有で、この地方ではこれを田池《たねけ》と称《とな》へて、その深さは殆ど人の肩を没するばかり、鯉《こひ》、鮒《ふな》の魚類をも其中に養つて、時には四五尺の大きさまで育てる事もあるといふ話。周囲には萱《かや》やら、薄《すゝき》やらの雑草が次第もなく生ひ茂つて水際には河骨《かうほね》、撫子《なでしこ》などが、やゝ濁つた水にあたらその美しい影をうつして、居るといふ光景であつた。山県の話に、自分が十五六の悪戯盛《いたづらざかり》には相棒の杉山とよくこの田池《たねけ》の鯉を荒して、一夜に何十尾といふ数を盗んで、殆ど仕末に困つた事があつたとの事を聞いて居つたが、その所謂《いはゆる》田池がこんな小さな汚穢《きたな》い者とは夢にも思つて居らなかつた。否、其友の家――村一番の大尽の家をもこんな低い小さいものとは?
 ふと見ると、その田池に臨んで、白い手拭を被つた一人の女が、頻《しき》りに草刈鎌を磨いで居る。
「神《かみ》さまア、旦那様《だんなさア》に吩咐《いひつ》かつて、東京の御客様ア伴《つ》れて来たゞア」
 と小童は突如《だしぬけ》に怒鳴つた。
 女は驚いて顔を上げた。何処と言つて非難すべきところは無いが、色の黒い、感覚の乏しい、黒々と鉄漿《おはぐろ》を附けた、割合に老《ふ》けた顔で、これが友の妻とすぐ感附いた自分は、友の姿の小さく若々しいのに比べて
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