、喞筒《ポンプ》だい」
 と言つたが、見知らぬ自分の姿に其儘走つて行つて了つた。
 成程|喞筒《ポンプ》に相違ない。けれどこの静かな山中の村にあのやうな喞筒! 火事などは何十年有らうとも思はれぬこの山中に、あのやうな喞筒の練習! 自分は何だか不思議なやうな気が為《し》て仕方が無かつたが、これは只《たゞ》何の意味も無い練習に止《とゞ》まるのであらうと解釈して、其儘其村へと入つて行つた。先《まづ》最初に小さい風情《ふぜい》ある渓橋、その畔《ほとり》に終日動いて居る水車、婆様《ばあさん》の繰車《いとぐるま》を回しながら片手間に商売をして居る駄菓子屋、養蚕《やうさん》の板籠を山のごとく積み重ねた間口の広い家、娘の唄《うた》を歌ひながら一心に機《はた》を織《おつ》て居る小屋など、一つ/\顕《あら》はれるのを段々先へ先へと歩いて行くと、高低|定《さだま》らざる石の多い路の凹処《くぼみ》には、水が丸で洪水《こうずゐ》の退《ひ》いた跡でもあるかのやうに満ち渡つて、家々の屋根は雨あがりの後のごとく全く湿《うるほ》ひ尽して居る。
 否、そればかりではない、それから大凡《およそ》十間ばかり離れたところには、新しい一箇《ひとつ》の赤塗の大きな喞筒《ポンプ》が据《す》ゑられてあつて、それから出て居る一箇のヅックの管《くだ》は後の尾谷《をたに》の渓流に通じ、二箇《ふたつ》の径五寸ばかりの管は大空に向つて烈しい音を立てながら、盛んに迸出《へいしゆつ》して居るのを認めた。
 其|周囲《まはり》には村の若者が頬かぶりに尻はしよりといふ体《てい》で、その数|大凡《およそ》三十人|許《ばか》り、全く一群《ひとむれ》に為《な》つて、頻《しき》りにそれを練習して居る様子である。喞筒《ポンプ》の水を汲み上げるもの、ヅックの管を荷《にな》ふもの、管の尖《さき》を持つて頻りに度合を計つて居るもの、やれ今少し力を入れろの、やれ管が少し横に曲るの、やれ洩るの、やれ冷いのと、それは一方《ひとかた》ならぬ大騒で、世話人らしい印半纏《しるしばんてん》を着た五十|格好《かつかう》の中老漢《ちゆうおやぢ》が頻りにそれを指図して居るにも拘《かゝ》はらず、一同はまだ好く喞筒の遣《つか》ひ方に慣《な》れぬと覚しく、管から迸出する水を思ふ所に遣らうとするには、まだ余程困難らしい有様が明かに見える。一同は今水を学校の屋根に濺《そゝ》がう
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