て、其時分のことが簇々《むら/\》と思ひ出されるのが例《つね》だ。で、何《ど》うして自分が其学校に通ふ事に為《な》つたかと言ふと、夫《それ》は自分が陸軍志願であつたからで自分の兄は非常な不平家の処から、規則正しい学校などに入つて、二年も三年も懸《かゝ》つて修業するのなら誰にでも出来る、貴様は少くともそんな意気地の無い真似を為《し》てはならぬ。何でも早く勉強して、来年にも幼年学校に入るやうにしなければ、一体|男児《をとこ》の本分が立《たゝ》ぬではないか。と言つた風に油を懸《か》けられたので、それで当時規則正しい、陸軍志願の学生には唯一の良校と言はれた市谷の成城学校にも入らずに、態々《わざ/\》速成といふ名に惚《ほ》れて、そのつまらぬ学校の生徒と為《な》つたのであつた。今から思ふと、随分愚かな話ではあるが、自分はいくらか兄の東洋豪傑流の不平に感化されて居つたから、それを好い事と深く信じ、来年は必ず幼年学校に入らなければならぬと頻《しき》りに学問を励んで居た。
 忘れもせぬ、自分の其学校に行つて、頬に痣《あざ》のある数学の教師に代数の初歩を学び始めて、まだ幾日《いくか》も経《へ》ぬ頃に、新に入学して来た二人の学生があつた。一人は髪の毛の長い、色の白い、薄痘痕《うすあばた》のある、背の高い男で、風采は何所《どこ》となく田舎臭《ゐなかくさ》いところがあるが、其の柔和な眼色《めつき》の中《うち》には何所《どこ》となく人を引付ける不思議の力が籠《こも》つて居て、一見して、僕は少なからず気に入つた。一人はそれとは正反対に、背の低い、色の浅黒い痩《やせ》こけた体格で、其顔には極《ご》く単純な思想が顕《あら》はれて居るばかり、低頭勝《うつむきがち》なる眼には如何《いか》なる空想の影をも宿して居るやうには受取れなかつた。二人とも綿《めん》の交つた黒の毛糸の無意気《ぶいき》な襟巻《えりまき》を首に巻付けて、旧《ふる》い旧い流行後れの黒の中高帽を冠つて(学生で中高帽などを冠つて居るものは今でも少い)それで、傍《そば》で聞いては、何とも了解《わか》らぬやうな太甚《はなはだ》しい田舎訛《ゐなかなまり》で、互に何事をか声高く語り合ふので、他の学生等はいづれも腹を抱へて笑はぬものは無い。
「イット、エズ、エ、デック」
 とナショナルの読本《リードル》の発音が何うしても満足に出来ぬので、二人はしたゝか
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