後悔したとてなんの役にたつ、ほんとうにつまらんなアと繰り返す。若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉のかおりをも嗅《か》がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。
社のガラス戸を開《あ》けて戸外《おもて》に出る。終日の労働で頭脳《あたま》はすっかり労《つか》れて、なんだか脳天が痛いような気がする。西風に舞い上がる黄いろい塵埃《じんあい》、侘しい、侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼《はね》をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値《ねうち》がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体格を運びながら考えた。
顔色《かおつき》が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示している。妻や子供や平和な家庭のことを念頭に置かぬではないが、そんなことはもう非常に縁故が遠いように思われる。死んだ方が好い? 死んだら、妻や子はどうする? この念はもう
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