はち》が置かれて、幅物は偽物《にせもの》の文晃《ぶんちょう》の山水だ。春の日が室《へや》の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い。机の上には二、三の雑誌、硯箱《すずりばこ》は能代《のしろ》塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。
 この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学者。若いころには、相応に名も出て、二、三の作品はずいぶん喝采《かっさい》されたこともある。いや、三十七歳の今日、こうしてつまらぬ雑誌社の社員になって、毎日毎日通っていって、つまらぬ雑誌の校正までして、平凡に文壇の地平線以下に沈没してしまおうとはみずからも思わなかったであろうし、人も思わなかった。けれどこうなったのには原因がある。この男は昔からそうだが、どうも若い女に憧れるという悪い癖がある。若い美しい女を見ると、平生は割合に鋭い観察眼もすっかり権威を失ってしまう。若い時分、盛んにいわゆる少女小説を書いて、一時はずいぶん青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあくがれ小説がそういつまで人に飽きられずにいることができよう。ついにはこの男と少女ということが文壇の笑い草の種となって、書く小説も文章も皆笑い声の中に没却されてしまった。それに、その容貌《ようぼう》が前にも言ったとおり、このうえもなく蛮《ばん》カラなので、いよいよそれが好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろう、打ち見たところは、いかな猛獣とでも闘《たたか》うというような風采と体格とを持っているのに……。これも造化の戯れの一つであろうという評判であった。
 ある時、友人間でその噂《うわさ》があった時、一人は言った。
 「どうも不思議だ。一種の病気かもしれんよ。先生のはただ、あくがれるというばかりなのだからね。美しいと思う、ただそれだけなのだ。我々なら、そういう時には、すぐ本能の力が首を出してきて、ただ、あくがれるくらいではどうしても満足ができんがね」
 「そうとも、生理的に、どこか陥落《ロスト》しているんじゃないかしらん」
 と言ったものがある。
 「生理的と言うよりも性質じゃないかしらん」
 「いや、僕はそうは思わん。先生、若い時分、あまりにほしいままなことをしたんじゃないかと思うね」
 「ほしいままとは?」
 「言わずともわかるじゃないか……。ひとりであまり身を傷つけたのさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」
 「ばかな……」
 と笑ったものがある。
 「だッて、子供ができるじゃないか」
 と誰かが言った。
 「それは子供はできるさ……」と前の男は受けて、「僕は医者に聞いたんだが、その結果はいろいろあるそうだ。はげしいのは、生殖の途《みち》が絶たれてしまうそうだが、中には先生のようになるのもあるということだ。よく例があるって……僕にいろいろ教えてくれたよ。僕はきっとそうだと思う。僕の鑑定は誤らんさ」
 「僕は性質だと思うがね」
 「いや、病気ですよ、少し海岸にでも行っていい空気でも吸って、節慾しなければいかんと思う」
 「だって、あまりおかしい、それも十八、九とか二十二、三とかなら、そういうこともあるかもしれんが、細君があって、子供が二人まであって、そして年は三十八にもなろうというんじゃないか。君の言うことは生理学万能で、どうも断定すぎるよ」
 「いや、それは説明ができる。十八、九でなければそういうことはあるまいと言うけれど、それはいくらもある。先生、きっと今でもやっているに相違ない。若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。先生のはきっとそれだ。つまり、前にも言ったが、肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ。それにしてもおもしろいじゃないか、健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダンの標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。君たちは僕が本能万能説を抱《いだ》いているのをいつも攻撃するけれど、実際、人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴《やつ》は生存しておられんさ」と滔々《とうとう》として弁じた。

       四

 電車は代々木を出た。
 春の朝は心地《ここち》が好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透《す》き徹《とお》っている。富士の美しく霞《かす》んだ下に大きい櫟林《くぬぎばやし》が黒く並んで、千駄谷《せんだがや》の凹地《くぼち》に新築の家屋の参差《しんし》として連な
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