。
娘のだ!
いきなり、振り返って、大きな声で、
「もし、もし、もし」
と連呼した。
娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのであるが、今すれ違った大男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の鋤《すき》の刃に光る。
「もし、もし、もし」
と男は韻を押《ふ》んだように再び叫んだ。
で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙《あ》げて、こっちを向いておもしろい恰好《かっこう》をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針《ピン》がない。はっと思って、「あら、私、嫌《いや》よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。
男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はいきせき駆けてくる。やがてそばに近寄った。
「どうもありがとう……」
と、娘は恥ずかしそうに顔を赧《あか》くして、礼を言った。四角の輪廓をした大きな顔は、さも嬉しそうににこにこと笑って、娘の白い美しい手にその留針を渡した。
「どうもありがとうございました」
と、再びていねいに娘は礼を述べて、そして踵《きびす》をめぐらした。
男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己《おれ》の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅《かいこう》しても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪《べっぴん》で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。聯想《れんそう》は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶《めと》った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺《もつ》れ合って、こんがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずかしい編集長《へんしゅうちょう》の顔が空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を急ぎ出した。
三
この男はどこから来るかと言うと、千駄谷《せんだがや》の田畝《たんぼ》を越して、櫟《くぬぎ》の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、樫《かし》の大樹に連なっている小径《こみち》――その向こうをだらだらと下った丘陵《おか》の蔭《かげ》の一軒家、毎朝かれはそこから出てくるので、丈《たけ》の低い要垣《かなめがき》を周囲に取りまわして、三間くらいと思われる家の構造《つくり》、床の低いのと屋根の低いのを見ても、貸家建ての粗雑《ぞんざい》な普請《ふしん》であることがわかる。小さな門を中に入らなくとも、路《みち》から庭や座敷がすっかり見えて、篠竹《しのだけ》の五、六本|生《は》えている下に、沈丁花《じんちょうげ》の小さいのが二、三株咲いているが、そのそばには鉢植《はちう》えの花ものが五つ六つだらしなく並べられてある。細君らしい二十五、六の女がかいがいしく襷掛《たすきが》けになって働いていると、四歳くらいの男の児《こ》と六歳くらいの女の児とが、座敷の次の間の縁側の日当たりの好いところに出て、しきりに何ごとをか言って遊んでいる。
家の南側に、釣瓶《つるべ》を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、細君はそこに盥《たらい》を持ち出して、しきりに洗濯《せんたく》をやる。着物を洗う水の音がざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の白蓮《びゃくれん》の美しく春の日に光るのが、なんとも言えぬ平和な趣をあたりに展《ひろ》げる。細君はなるほどもう色は衰えているが、娘盛りにはこれでも十人並み以上であったろうと思われる。やや旧派の束髪に結って、ふっくりとした前髪を取ってあるが、着物は木綿の縞物《しまもの》を着て、海老茶色《えびちゃいろ》の帯の末端《すえ》が地について、帯揚げのところが、洗濯の手を動かすたびにかすかに揺《うご》く。しばらくすると、末の男の児が、かアちゃんかアちゃんと遠くから呼んできて、そばに来ると、いきなり懐《ふところ》の乳を探った。まアお待ちよと言ったが、なかなか言うことを聞きそうにもないので、洗濯の手を前垂《まえだ》れでそそくさと拭《ふ》いて、前の縁側に腰をかけて、子供を抱いてやった。そこへ総領の女の児も来て立っている。
客間兼帯の書斎は六畳で、ガラスの嵌《は》まった小さい西洋書箱《ほんばこ》が西の壁につけて置かれてあって、栗《くり》の木の机がそれと反対の側に据《す》えられてある。床の間には春蘭《しゅんらん》の鉢《
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