っているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込んでいた。けれど無言の自然を見るよりも活《い》きた人間を眺《なが》めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして電光《いなずま》のように早く鋭くながし眼を遣《つか》う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面ではあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜《はす》に対して座を占めるのが一番便利だと。男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの秘訣《ひけつ》は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を攫《つか》むことを過《あやま》らない。
年上の方の娘の眼の表情がいかにも美しい。星――天上の星もこれに比べたならその光を失うであろうと思われた。縮緬《ちりめん》のすらりとした膝《ひざ》のあたりから、華奢《きゃしゃ》な藤色の裾《すそ》、白足袋《しろたび》をつまだてた三枚襲《さんまいがさね》の雪駄《せった》、ことに色の白い襟首《えりくび》から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房《ちぶさ》だと思うと、総身が掻《か》きむしられるような気がする。一人の肥《ふと》った方の娘は懐《ふところ》からノートブックを出して、しきりにそれを読み始めた。
すぐ千駄谷駅に来た。
かれの知りおる限りにおいては、ここから、少なくとも三人の少女が乗るのが例だ。けれど今日は、どうしたのか、時刻が後《おく》れたのか早いのか、見知っている三人の一人だも乗らぬ。その代わりに、それは不器量《ぶきりょう》な、二目とは見られぬような若い女が乗った。この男は若い女なら、たいていな醜い顔にも、眼が好いとか、鼻が好いとか、色が白いとか、襟首が美しいとか、膝の肥り具合が好いとか、何かしらの美を発見して、それを見て楽しむのであるが、今乗った女は、さがしても、発見されるような美は一か所も持っておらなかった。反歯《そっぱ》、ちぢれ毛、色黒、見ただけでも不愉快なのが、いきなりかれの隣に来て座を取った。
信濃町《しなのまち》の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらしく美しい、華族の令嬢かと思われるような少女と膝を並べて牛込まで乗った記憶があるばかり、その後、今一度どうかして逢《あ》いたいもの、見たいものと願っているけれど、今日までついぞかれの望は遂げられなかった。電車は紳士やら軍人やら商人やら学生やらを多く載《の》せて、そして飛竜のごとく駛《はし》り出した。
トンネルを出て、電車の速力がやや緩《ゆる》くなったころから、かれはしきりに首を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと見馴《みな》れたリボンの色を見得たとみえて、その顔は晴れ晴れしく輝いて胸は躍《おど》った。四ツ谷からお茶の水の高等女学校に通う十八歳くらいの少女、身装《みなり》もきれいに、ことにあでやかな容色《きりょう》、美しいといってこれほど美しい娘は東京にもたくさんはあるまいと思われる。丈《せい》はすらりとしているし、眼は鈴を張ったようにぱっちりしているし、口は緊《しま》って肉は痩《や》せず肥《ふと》らず、晴れ晴れした顔には常に紅が漲《みなぎ》っている。今日はあいにく乗客が多いので、そのまま扉のそばに立ったが、「こみ合いますから前の方へ詰めてください」と車掌の言葉に余儀なくされて、男のすぐ前のところに来て、下げ皮に白い腕を延べた。男は立って代わってやりたいとは思わぬではないが、そうするとその白い腕が見られぬばかりではなく、上から見おろすのは、いかにも不便なので、そのまま席を立とうともしなかった。
こみ合った電車の中の美しい娘、これほどかれに趣味深くうれしく感ぜられるものはないので、今までにも既に幾度となくその嬉《うれ》しさを経験した。柔かい着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温《あたた》かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。ことに、女の髪の匂《にお》いというものは、一種のはげしい望みを男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであった。
市谷《いちがや》、牛込《うしごめ》、飯田町と早く過ぎた。代々木から乗った娘は二人とも牛込でおりた。電車は新陳代謝して、ますます混雑を極《きわ》める。それにもかかわらず、かれは魂を失った人のように、前の美しい顔にのみあくがれ渡っている。
やがてお茶の水に着く。
五
この男の勤めている雑誌社は、神田《かんだ》の錦町《にしきちょう》で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道
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