娘のだ!
 いきなり、振り返って、大きな声で、
 「もし、もし、もし」
 と連呼した。
 娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのであるが、今すれ違った大男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の鋤《すき》の刃に光る。
 「もし、もし、もし」
 と男は韻を押《ふ》んだように再び叫んだ。
 で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙《あ》げて、こっちを向いておもしろい恰好《かっこう》をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針《ピン》がない。はっと思って、「あら、私、嫌《いや》よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。
 男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はいきせき駆けてくる。やがてそばに近寄った。
 「どうもありがとう……」
 と、娘は恥ずかしそうに顔を赧《あか》くして、礼を言った。四角の輪廓をした大きな顔は、さも嬉しそうににこにこと笑って、娘の白い美しい手にその留針を渡した。
 「どうもありがとうございました」
 と、再びていねいに娘は礼を述べて、そして踵《きびす》をめぐらした。
 男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己《おれ》の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅《かいこう》しても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪《べっぴん》で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。聯想《れんそう》は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶《めと》った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺《もつ》れ合って、こんがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずかしい編集長《へんしゅうちょう》の顔が空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を急ぎ出した。

       三

 この男はどこから来るかと言うと、千駄谷《せんだがや》の田畝《たんぼ》を越して、櫟《くぬぎ》の並木の向
前へ 次へ
全14ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング