、繻珍《しゅちん》の鼻緒《はなお》、おろし立ての白足袋《しろたび》、それを見ると、もうその胸はなんとなくときめいて、そのくせどうのこうのと言うのでもないが、ただ嬉《うれ》しく、そわそわして、その先へ追い越すのがなんだか惜しいような気がする様子である。男はこの女を既に見知っているので、少なくとも五、六度はその女と同じ電車に乗ったことがある。それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざ廻《まわ》り路《みち》をしてその女の家を突き留めたことがある。千駄谷の田畝の西の隅《すみ》で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。眉《まゆ》の美しい、色の白い頬《ほお》の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその眉と眼との間にあらわす娘だ。
「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし……それは毎朝|逢《あ》わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ行くのだろう」と思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだか侘《わび》しいような惜しいような気がして、「己《おれ》も今少し若ければ……」と二の矢を継いでたが、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供もある」と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。
代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣《きぬ》ずれの音、白粉《おしろい》の香《にお》いに胸を躍《おど》らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。
停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。
板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立っているのをめざとくも見た。
肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。はでな縞物《しまもの》に、海老茶の袴《はかま》をはいて、右手に女持ちの細い蝙蝠傘《こうもりがさ》、左の手に、紫の風呂敷包みを抱えているが、今日はリボンがいつものと違って白いと男はすぐ思った。
この娘は自分を忘れはすまい、むろん知ってる! と続いて思った。そして娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向い
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