何物をか見て憧《あこが》れているかのように見えた。足のコンパスは思い切って広く、トットと小きざみに歩くその早さ! 演習に朝出る兵隊さんもこれにはいつも三舎を避けた。
たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩《す》れてなくなった鳶色《とびいろ》の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色《ようかんいろ》に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄《がら》にない海老茶色《えびちゃいろ》の風呂敷《ふろしき》包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。
四《よ》ツ目《め》垣《がき》の外を通りかかると、
「今お出かけだ!」
と、田舎の角の植木屋の主婦が口の中で言った。
その植木屋も新建ちの一軒家で、売り物のひょろ松やら樫《かし》やら黄楊《つげ》やら八ツ手やらがその周囲にだらしなく植え付けられてあるが、その向こうには千駄谷の街道を持っている新開の屋敷町が参差《しんし》として連なって、二階のガラス窓には朝日の光がきらきらと輝き渡った。左は角筈《つのはず》の工場の幾棟、細い煙筒からはもう労働に取りかかった朝の煙がくろく低く靡《なび》いている。晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。
男はてくてくと歩いていく。
田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣《しばがき》、樫垣《かしがき》、要垣《かなめがき》、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門《かぶきもん》、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの繩《なわ》のまだ取られずについているのも見える。一、二丁行くと千駄谷通りで、毎朝、演習の兵隊が駆け足で通っていくのに邂逅《かいこう》する。西洋人の大きな洋館、新築の医者の構えの大きな門、駄菓子《だがし》を売る古い茅葺《かやぶき》の家、ここまで来ると、もう代々木の停留場の高い線路が見えて、新宿あたりで、ポーと電笛の鳴る音でも耳に入ると、男はその大きな体を先へのめらせて、見栄も何もかまわずに、一散に走るのが例だ。
今日もそこに来て耳を※[#「※」は「奇+攴」、第3水準1−85−9、117−8]《そばだ》てたが、電車の来たような気勢《けはい》もないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲がる角で、ふと栗梅《くりうめ》の縮緬《ちりめん》の羽織をぞろりと着た恰好《かっこう》の好い庇髪《ひさしがみ》の女の後ろ姿を見た。鶯色《うぐいすいろ》のリボン
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