、笑っている。
「そうですか」
「あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、君を好男子と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格を見て、その予想外なのに驚いたというからね」
「そうですかナ」
と、杉田はしかたなしに笑う。
「少女万歳ですな!」
と編集員の一人が相槌《あいづち》を打って冷やかした。
杉田はむっとしたが、くだらん奴《やつ》を相手にしてもと思って、他方《わき》を向いてしまった。実に癪《しゃく》にさわる、三十七の己《おれ》を冷やかす気が知れぬと思った。
薄暗い陰気な室はどう考えてみても侘しさに耐えかねて巻き煙草《たばこ》を吸うと、青い紫の煙がすうと長く靡《なび》く。見つめていると、代々木の娘、女学生、四谷の美しい姿などが、ごっちゃになって、縺《もつ》れ合って、それが一人の姿のように思われる。ばかばかしいと思わぬではないが、しかし愉快でないこともない様子だ。
午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。妻のことを思う。つまらんな、年を老《と》ってしまったとつくづく慨嘆する。若い青年時代をくだらなく過ごして、今になって後悔したとてなんの役にたつ、ほんとうにつまらんなアと繰り返す。若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉のかおりをも嗅《か》がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。
社のガラス戸を開《あ》けて戸外《おもて》に出る。終日の労働で頭脳《あたま》はすっかり労《つか》れて、なんだか脳天が痛いような気がする。西風に舞い上がる黄いろい塵埃《じんあい》、侘しい、侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼《はね》をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値《ねうち》がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体格を運びながら考えた。
顔色《かおつき》が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示している。妻や子供や平和な家庭のことを念頭に置かぬではないが、そんなことはもう非常に縁故が遠いように思われる。死んだ方が好い? 死んだら、妻や子はどうする? この念はもう
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