と見えて、その向うに、色の白い、眼のぱつちりした――その眼から額へかけては、何遍夢に見たか知れないその時子の顔が笑《ゑみ》を含んで此方《こちら》を見てゐるのをBははつきりと見た。
 Bは急いで起上《たちあが》つた。そしてそつちへ二三歩近寄つた。
「お!」
「まア、貴方!」
 女中が見てゐなかつたら、かれ等は互ひに抱き合つたかも知れなかつた。Bは時子の眼の中に光つたものを見ると同時に、かれの眼にも熱いものが溢れて来るのを感じた。時子は何方《どちら》かと言へばじみなつくりをしてゐた。以前から派手なのが嫌ひで、まだ若いのにあまり年増づくりだなどと言はれたのであつたが、その好みは今でも変らないらしく、黒繻子の帯に素銅《すあか》の二疋鮎の刻《ほり》のしてある帯留などをしてゐた。髪は前の大きく出た割合に旧式な束髪にしてゐた。それにも拘らず、そのすらりした姿は、明るい室《へや》の夜の光線の中にくつきりと浮び上つて見えた。
 時子は椅子にも腰かけず、ぢつと立つてかれの方を見詰めた。Bも何と言つて好いかわからなかつた。かうして相対しない以前にあつては、行つたならば誰がゐたつて構ふことはない、抱擁するなり
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