、西の方の大きな山脈に添つて、崖を渉つたり谷を越えたりしてやつて來た。種族の中でも聞えた老人が一人ゐて、その孫娘やら息子やら仲間やらが一緒になつて來た。老人は宿泊地の所在、水の所在、路程の遠近などをそらで知つてゐた。かれは幼い頃から一生を山で暮した。南部の奧へも行けば、九州の果てまでも行つた。よく若者をその周圍に集めて、彼方此方の山の話や、處々で遭難した冒險談などをしてきかせた。
孫娘は二人あつた。姉をあぐりと言ひ、妹を小菊と言つた。あぐりは二十歳、小菊は十八歳、何方もこの冬には相應な夫を持たせて、一人前の山捗ぎをさせる筈になつてゐた。娘達の元氣に笑ふ聲は、山裾の遠いテントから常に洩れてきこえた。
平公は常公に言つた。『何うだな。あのあまつ子は?』
『うむ……』
常公はにやにや笑つてゐた。
傍にゐた平公の嚊は、『妹の方が好がんべ。容色も好いし、氣立も好いや。それに肥つてるアな。』
『あはゝ。』
平公も常公も笑つた。
『でもな、もつと好いのがあるかも知んねえでな。』
『ほんまに……』
『好いのを選る方が好いがな。あんまり選ると、終ひには、相手がなくなるぜや。俺の嚊のやうなものでも、お方にして見りや好いもんだぞな。』
『まア、行つてからだ。國にや好いのが來よるぞ。』
などと常公は言つた。かれはもうこの冬こそは必ずすぐれた氣に入つた相手を得なければならぬと思つてゐた。
里に下りて行く路などで、何うかすると、常公はその孫娘達と一緒になつた。姉も妹も襤褸を着て、さゝらやたわしを背負つて尻を高くはしより上げて、後になり先になりして岨道を歩いた。
『をんさん(おぢいさん)おつかねえかよ。』
姉も妹も笑ひながら頭を振つた。
『おつかなくねえけりや、俺らんとこへ來うな。』
『…………』
『來ねえ?』
わざと調戯ふやうにして、『來れや、荊棘でも何でも負うぞな。三年一生懸命になつて働くぞな。南部へ伴れて行くぞ。』
『俺ア、なるべいか。』
などと姉娘は笑つた。
『そんなこと言ふけど、好いのがあるんだんべ、ちやんと約束して置いたんべ、歸つて來るのを待つてるんだんべ。』
『さうかも知れねえよ。』
『當てゝ見べいか?』
『見さつしやい。』
こんなことを言ひながら三人は縺れながら歩いた。娘達は一緒に行つた朋輩の一人二人が町で誘惑されて行方不明になつた話などをした。『何處へ行つたか、いくらさがしてもわかんねえだ。男でも拵らへて突走つたんだんべいがて言ふこんだ。』
『お女郎にでも賣られたんべ。』
『お女郎に、俺アもなるかや。綺麗だな、お女郎は──』妹を顧みて、『いゝ着物を着て、見ただけでも俺は吃驚したゞよ。金はくれるし、男は好き次第だつて言ふしな、山捗ぎなぞより何ぼ好いか?』
『ほんまにな。』
『雨にぬれなくつても好いし、働かなくつて好いしな。』
常公は言つた。『でもな、山を出ると、好いことはねえや。』
町へ出た娘達の話などを姉妹は胸に思ひ浮べずには居られなかつた。中には、一度出て行つた山に謝罪して再び戻つて來るものなどもあつた。町には好いこともあれば、怖ろしいことも澤山にあつた。昔、朋輩であつた娘の一人が其處から彼處へと賣られて、辛い/\世を送つてゐるのにひよつくりある處で出會つたことなどを娘達は思ひ起してゐた。『矢張り、山が好い。』姉も妹もこんなことを思ひながら歩いた。
雨に濡れたり坂路を歩いたりするのは辛いけれど、時にはまた樂しい面白いことも山にはあつた。蕨、山牛蒡、山獨活、春は一面に霞が棚引いて、鶯やカツコ鳥が好い聲をして啼いた。谷には綺麗な水が流れ、山には美しい花が咲いた。生れたばかりの子供を負つて、やさしい力強い亭主と二人で、誰もゐない山の中を其處から此處へと放浪して歩く興味を娘達はをり/\頭に繰返した。
老人のテントへは若い人達がよく遊びに出かけた。老人がせつせと木地をつくつてゐる傍で若い人達は娘と種々な話などをした。ある夜、姉が眼を覺してゐると、テントの外には、誰か人が來たやうな氣勢がした。ガサ/\と草をわける音がして、つゞいてある相圖の音がした。姉はじつとしてゐた。と、急に、妹の小菊は、そつと立つて、靜かにテントの外へと出て行くのが見えた。星が美しく空にかゞやいてゐた。
あくる日、姉のあぐりは訊いた。
『昨夜何處へ行つたかや?』
妹は吃驚したやうな顏の表情をしたが、『何故や?』
『だつて、行つたんべや?』
『何處へも行きやしねえ。俺ア。ちやんと、姉つ子の傍に寢てたがな。』
『さうかや。』
『何でそんなこと訊くだべや?』
『さうかや、それぢや、夢だつたかな。』かう言つて、姉は默つた。姉はその後は何も言はなかつた。
『おつさん。早う國へ歸りたいな。』かう言つて姉は涙を流した。
『この孫は、まア、何うしたんだんべ。國に歸りていなんて……。イヤでも、この冬には歸るだア。そして今年こそ、好い婿どん、取つてやんべいな。せつせと稼げよな、好い兒ぢやで。』
『…………』
『もうぢきだアな。此處に十日ゐて、それから、あそこに三日、あそこに七日、そしてあの大きな山を越しさへすりや、國はもう見えるだで。』
などと言つて老人は慰めた。
山の氣象は日に/\寒くなりつゝあつた。落葉はガサ/\と風に吹かれて飛んだ。落葉松は黄葉して、霜を帶びた下草は皆枯れて見えた。奧山は、早くも、雪が白くかゝつた。
ある日は凄じい凩が山をも撼かすばかりに吹いた。木の葉も皆散り/″\に、草は薙倒され、谷川の音は吠えるやうに聞えた。聳え立ち、重なり合つた山々には雲もかゝらず、黄色い冬近い日影が廣い高原を淋しく照らした。姉娘のあぐりは、ひとりさびしくこの吹きあるゝ凩の中を、祖父の造つた木地を負つて、里へ通ふ岨道を下りて行つた。
五
ある處からある處へと行く途中で、一行はまた向うの山脈の中から出て來た一群の人達と落ち合つた。群の頭領の老人は、此方の老人と路の角で立つて話した。
『ヤ、無事かや。』
『おぬしも無事かや。』
此方の老人は、ぞろ/\とあとについて來る群を見渡して、『かなりに大勢だな。』
『おう、こんな大勢になつたぢや。作の組と、政の組とに、向うで出逢つたでな……。おぬしは何處から來た?』かう言つたが、南部に行つて去年歸らなかつた老婦達の群の中に雜つてゐるのを見て、『おう、おぬしも歸つて來たぢやな。去年は歸らねえし、たよりはなし、何うかしたかと思つて案じてゐたがや。』
また見廻して、
『息子はな?』
『死んだがや。』
老婦の眼からは見る/\涙が流れた。
彼方の老人の頭領と老婦とは、長い間立つて話した。頭領の點頭いたり、眼をしばたゝいたりするのが此方から見えた。『さうかや、氣の毒なことをしたなア。若い好い息子ぢやつたに……それから、他の衆は何うしたな?』
『上州でわかれたが、もう其處等に來てゐべいよ。』
『さうかな。』
二人は猶立つて話した。
この群は二組三組其處此處で落合つたゞけに、息子達も娘達も夫婦連も子供達も非常に多かつた。誰れも皆鍋と道具とバケツとを負つて、木の枝の杖をついてゐた。
『まア、無事で好かつたな。』
『おめいさん達も。』
『うんと、貯めて來たかな。』
『何うしやんして。』
こんな會話が其處にも此處にも起つた。
常公や平公の仲の好い友達などもその群の中にゐた。貞公と言ふ男は、『えらい目に逢つたぞや。熊にも逢へばサアベルにも逢つてな。ある處ぢや、もう、既でのことで、牢の中へ打込まれる處だつたぞ。』などと言つて話した。『おつかア、腹ア減つた、腹ア減つた!』かう子供達は母親をせがんだ。それにも拘らず、母親達は平氣で路の角の木の根に腰をかけて話した。
『おつかア、おつかア、腹が減つた!』
『煩せい餓鬼だな。』
かう言つたが、母親の一人は、甘藷の茹でたのを一本出して子供にやつた。と彼方からも此方からも小さい手が五本も六本も出て、煩さくまつはり附いて來た。中には自分の貰つた甘藷を取られてべそをかいてゐるのもあつた。ある者は泣き立てた。
『それ!』
母親は五六本其處に投げてやつた。
其處にも此處にも人達は腰を下して休んだ。或は木の根元、或は藪の中、或は小川の畔、中には足を投出して寢轉んでゐるものもあれば、渇を醫すべく口を川の水に押當てゝゐるものもあつた。娘達は皆な赤い脚半を穿いてゐた。
午後の日影は鮮かにかうした一群の上を照した。日に燒けた顏、土に塗れた着物、荒れた唇、蓬ろなす髪、長く生えた鬚、さういふものが到るところにあつた。若い娘と若い男達は、後の林の木立の中深く入つて行つた。
繰返して語られるのは、長い間の旅の艱難と、辛勞と、その折々についてのめづらしい物語とであつた。逢うての喜悦、別れての悲哀は、矢張かういふ放浪者の群にもあつた。それに、後から合した群は、大きな山脈を越えて、海近くまで行つたので、めづらしい物語を澤山に澤山に持つてゐた。
二人の老人はかうした群から少し離れて斜坂になつた草藪のところに腰をかけて話してゐた。主として彼方此方で別れた連中の話が問題になつてゐた。
『もう、此處等近くに來てると思ふがな。』
『來てるに違ひねえ。』
『まア、仕方がねえ。向うに行つて、一日二日待つて見るだ。成だけ、一緒になつて歸つて行く方が好いで……』
『ほんまぢや……』
『紋十郎の組は何うしたんべ。何處でも、ちつとも、奴の組の衆には出會はさなかつたがな、……お前は何うぢやつた。』
『俺も知らねえ。』
『何處か遠くへでも行つたかな。』
『さうかも知んねえ。』
一時間ほどして、一行は出發の準備に取りかゝつた。相圖につれて、一行は皆な其處此處から集つて來た。誰も彼も荷物を負つた。七八歳になる子供まで皆な小さな包を負はせられた。
一行はもう三十人近くなつてゐた。先に行くものもあれば、後からつゞくのもある。勞れた足を引摺るやうにしてゐるものもあれば、さつさと元氣よく先に立つて行くものもある。路は高原から林の中に入り杜の中からまた高原へと出て行つた。
此處等はもう里からは遠く離れてゐた。里の樵夫も、此處までは入つて來たやうな路はなかつた。谷川の音が何處か遠くで咽ぶやうにきこえた。
一行の最後を、常公とその妹娘とが並んで歩いて行つた。山坂にかゝると、常公は娘を後から押すやうにした。二人は一行の姿の見えるか見えない位のところを歩いてゐた。
『ちよつくら休むべい。』
かう言つては二人は路傍の木の根に腰をかけた。
『姉さん、泣いたゞ、……姉さんにわるいでな。』
『よく言ふでな、俺が……』
『でも姉さん一人ぼつちになつて了つてな。それが、何よりわりい……』
『何か言つたか。』
『何にも言はねえ。』
『でも、知つちやゐるな。』
『知つてるともな……』
『でも仕方がねえや、かうなつたんだで……。唯、おんさんが怖いな。』
『…………』
暫くしてから、『皆なにはぐれるとわるいで、もう行くべいや。』
『大丈夫だ。』
『でもな……』
『俺ア、路、知つてゐるだで、大丈夫だよ。あとから行くべい。』
『でも、さむしいや。』
『さむしいもんか、この俺がついてゐる。』
ぐいと抱き緊めるやうに男がすると、
『厭、厭……』
『いやなことがあるもんか。……昨夜だッて來たぢやねえか。』
『でも、厭……』
常公はそれにも拘らず、手籠にでもするやうにしつかり抱きついて、『な、來年はな、うんと稼ぐべいな。一緒に、會津から南部まで行くべい。そしてうんと金貯めて來べいな。可愛い奴ぢやな。』
『あほらしい。』
娘はにこりと笑つて見せた。
『行くべいよ、もう……』
『さア行くべ。』
で、二人は立上つた。見ると、一行は林をぬけて、山坂へかゝつたらしく、羊膓とした路を彼方此方とたどつて行くさまが手に取るやうに見えた。山が午後の晴れた空に鮮かに美しく聳えてゐた。
六
故郷近くなつても、一行は急ぐやうな樣子を見せなかつた。其處に一日、彼處に一日といふ風にして、テントを張つては、ゆつくりと泊つて行つた。
金を貯めて
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