來たものは、山で一日遊んでゐるけれど、大抵な人達は、材料のあるところでは、竹や木を切つて來て仕事をした。そして一里二里位あるところを里へと出かけた。
大勢になつてからは、かうした山の中に、こんな賑かな光景があるかと思はれるやうな状態が毎夜續いた。誰の心も、歸國を前にして、樂しい思ひに滿ちあふれてゐた。常公に限らず、若い人達は、やがて來るべき結婚の期節を皆な頭に繰返してゐた。樹の枝から枝へと並べて張つたテントは、丁度庇を並べた町家のやうに見えた。バケツを下げて水を汲みに行く娘、そこらを面白さうにかけずり廻つてゐる子供達、里から歸つて來る人達は、大抵大きな徳利に酒を滿して持つて來た。
渡鳥がもう群を成して山から山へとやつて來た。それを獲るために、老人連はかねて準備して置いた網を山の峯の上へと持つて行つて張つた。そこに若者はをりをり訪ねて行つたりした。
『おんさん獲れるかね。』
老人は默つて其處に置いてある網のついた籠を指した。つぐみが澤山に澤山にその中に入つてゐた。見てゐる中に、一羽二羽飛んで來てはかゝつた。
ある谷合では、鹿が二疋も三疋もゐるのを發見した。群の中に生憎鳥銃を持つたものがなかつたので山刀を振翳したり、木の根を持つたりして人々はそれを追ひ廻した。子供連もあとから飛んでついて行つた。女達も皆なテントの中から出て來た。ワアイといふ聲が一しきり谷のこだまにひゞいてきこえた。
『取れたかや?』向うから走つて來る男を取卷いて女達が訊いた。
『取れた、取れた、大きいだよ。』
五六人の若者達は、やがて木の根に結へた大きな鹿をワイワイ言ひながらかついでやつて來た。
『成程大きいな。これは大きい。』などと傍に寄つて來た老人の一人は言つた。やがて刀はある若者に依つてとられた。そこに横へられた鹿は、やがて腹から割かれた、女や子供は大勢その周圍を取卷いて見てゐた。
肉は彼方此方のテントへ洩れなく分配された。頭領のゐるテントでは、やがてそれを肴に樂しい面白い酒宴が始められた。石油を彼方此方から集めて來て、小さな三分のランプを點して、大きな鍋で、その肉は※[#「者/火」、第3水準1−87−52、98−13]られた。茶碗に一杯に波々と注いだ酒、地酒ではあるが、それでもかれ等を醉はせるには十分だ。やがて昔から傳へられた山の唄などが唄はれた。
『俺アの若い時分には、こゝらでも、かういふ鹿や猪は澤山にゐたもんだがな。今ぢや、もう滅多にやゐねえ。こんなに大きいのはめづらしいや。それと言ふのも、山が開けたからぢや。今ぢやもう此處等には、好い木さへなくなつた。それから思ふと、昔は好かつた。何をしようが、今のやうにやかましく咎められるやうなことはねえし、鳥でも獸でも澤山にゐたし、里に下りて行つたツてサアベルなんかにおどかされるやうなこともねえ……。近い山ぢやもう旨いことはねえだ。』老人達はかう言つて、昔の山の話をした。
そこの谷合から高原へ出て、それからまた山を越した一行は、漸く故郷を去ること餘り遠くないあたりまで來てゐた。あるところでは、三日ほど雨に降りつゞけられて、佗しくテントの中に蹲踞つて暮した。其處では、かれ等は雨を犯して此方へやつて來た群と落合ふことが出來た。
ある時は、途中で日が暮れて、大きな峠を越えて行かなければならなかつた。それは山から山を越して、遠くに、町、村、野、更に遠くに海を見るといふやうなところであつた。割合に、かれ等は町や里近くへと出て來てゐた。わるい路を辛うじて峠へ登りついた一行は、下に遠く町家の灯のついてゐるのを見た。山と山との峽から見える町は、中でもことに灯が美しかつた。突然遠くの暗い闇の野を、灯の長くつゞいたものゝ動くのを見た。
『汽車!』
『それ、汽車が行く……』
一行は皆な其方を見た。ひろい野には、長蛇のやうな汽車が徐かに動いて行くのであつた。『汽車! 汽車。』かう言つて、皆な其方の方を眺めた。
そこから一里ほど行つた宿泊地に着いて、その夜は一行は慌たゞしくテントを吊つて寢たが、夜の明けた時には、山を越し野を越して、遙かに碧い渺茫とした海の繪のやうに展開されてあるのを見た。島の連つた彼方には白帆が靜かにあやつり人形のやうに動いた。
これはもう故郷の近い徴であつた。故郷を出て三日路、其處でかれ等はいつもこの遠い海の光を見て、それから深い深い際限のない山の中に入つて行くのであつた。『海が見える……海が見える……。』かう言つた人達の胸には、やがて來る一年一度の歸國の宴が樂しく歴々と描かれてゐた。
もう人達は落附いて仕事をしてゐられなくなつた。若者も娘達も夫婦連も、皆な一齊に、一刻も早く歸國を望んだ。
しかし一行はまだ其處で後れたある一つの群を待たなければならなかつた。それは木曾の方の山に入つて行つた人達で、其處まで行つたならば、その人達はもう先に其處に行つてゐて此方の來るのを遲いと言つてゐるだらうと思つて來たのであつた。『何してゐるんだんべ。』かう誰も彼も言つた。
『まだ遲いでねえから、ゆつくら、此處等で遊んで行くが好い。此處まで來ればもう國に歸つたも同じだでな。』
『ほんにな。』
人達は遠い山の中にゐて、何遍この海の見える宿泊地を夢に見たか知れなかつた。南部に行つて一年歸つて來なかつた老婦は、息子のことを思ひ出したと見えて堪らないといふやうにして涙を流してゐた。
その宿泊地から山に入つて行かうとするところには、地藏尊が一つさびしさうにして立つてゐた。それはかれ等山に行くものの常に道路の平安を祈るところで、そこは大きい小さい石が常に澤山に供へられてあつた。老婦の息子も、矢張一昨年此處で石を供へて行つた。
『何うしてもあきらめられねえ。』
『さうだんべなあ。』平公の若い嚊はさも同情に堪へないやうにして言つた。
『俺ア、あの時、一緒に死んで了へば好かつた。』
『でもな、國へ行けば、娘衆もあるしな、親類もあんべいし……死んだものをいくら考へたッて仕方がねえだでな。』
『俺ア何うすべいな。』老婦は猶も泣いた。
それは三日目の午後五時すぎであつた。山はすつかり晴れて、後の山に白い雲が一片かゝつてゐるばかり、襞といふ襞、谷といふ谷はすべて一目に見渡された。ふと、ある男が叫び出した。
『來た! 來た!』
續いて三人も四人も叫んだ。『來た! 來た! 木曾の衆が來た!』
その叫聲はそれからそれへと瞬く間に傳はつて行つた。『來た! 來た!』總ての人達は唄か何ぞを唄ふやうにして、調子を取つて踊り上つた。
山の襞に添うた羊膓とした路、それを桐油を着た十五六人の同勢が並んで此方へ下りて來るのが夕日を帶びて明かに見えた。林にかくれ、岩角にあらはれ、再び隱れ再び現はれて、次第に此方へ此方へと近づいて下りて來た。山裾の林の葉は既に落ちて、熊笹の葉がガサガサと鳴つた。
若者を先に立てゝ、老人達は林の角まで迎へに行つた。
『お無事ぢやつたか?』
『お無事か?』
かういふ言葉は、頭領と頭領との間に取換された。
『いつ來さしやつた? もつと早く來べい思つたが、病人があつたでな。』
『さうか、道理で遲いと思つた。誰だ? 病人は?』
『國の野郎だ。』
『それはいかんぢやつたな。もう好いか。』
『もう大事ない。』
愈々明日は出發と言ふので、其夜は其處でも此處でも酒宴が始まつた。若い男と若い娘とは彼方此方と戯れて歩いた。テントは山裾の林を賑やかにした。
滯在なしの三日路の樂しい旅はやがてその翌日から始まつた。最初の日は雨、次の日はからりと晴れたが、思ひもかけないほどの寒さで、山の雪は既に近くかれ等の路に迫つて來てゐた。しかしかれ等の樂しい心を曇らせるものは何もなかつた。子供達まで、明日は國に歸れると言ふので勇み勇んで嶮しい高い山路を登つた。
三日目の午後には、かれ等の部落の見えるある峠の上へと一行は近づきつゝあつた。足の達者なものは、我先にと山路を走つて、一散にその峠の上へと登つて行つた。三人四人五人、手を擧げて叫んでゐるのが下から仰いで見られた。誰ももうじつとしては居られなかつた。女達子供達も老人達も一散につづいて驅け上つた。歡呼の聲は一時峠の空氣を震はせた。かれ等の眼下には、白いテントが林から林へと一面に張られてあるのが見えた。
底本:「定本 花袋全集 第七巻」臨川書店
1993(平成5)年10月10日復刻版発行
底本の親本:「定本 花袋全集 第七巻」内外書籍
1936(昭和11)年8月16日初版発行
※底本97頁14行目に見る「網のついた籠を指した。」の「指」は、底本の親本初版で判読が困難なほど欠けており、これを覆刻した底本でも同様の状態にありました。複数の底本と底本の親本を見比べ、文脈からの推測も交えて、このファイルでは当該箇所に「指」を入れました。
※「羊腸」と「羊膓」の混在は、底本のママとしました。
※濁点の有無に統一性を欠く「くの字点」の用法は、底本のママとしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:もんむー
校正:松永正敏
2002年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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