常はかう言つて、『何うせ里にやゐられねえ。山へつツ走らうと思つてゐただでな。つい出來心でな。』
『工夫をしてたか?』
『いや、それからはいろんなことをしただ。工夫を一月して、それからまた乞食をして、町の中を荒して歩いて、四五日前に、この下の村さ來たゞ。里はもうよく/\厭だ。今日山へ來ようか明日山へ突走らうかと思つてゐたゞ。停車場があらアな。あそこから山へ出て來ると、畠にひとりあまつ子が出て働いてゐる。綺麗なあまつ子だ。ふと、ひよんな氣になつた。……おめいさ、それも無理はあんめい、女ツ子の肌なんて、今年は一度だツて出會さねえんだからな。』かう言ひかけて常は笑つた。
『で、かゝつたんか?』
『さうよ。旨くやつたんよ。ところがそれが知れてな。昨日、一日、あの雨の中を逐ひ廻されて、それからやつとの思ひで此方へと入つて來た。』
『おまはりも出て來たかや?』
『出て來たにも何にも……』
『それやいかんな。此處まで來やしねえか。』
『この雨だから、此處までは來めいがな。』
『なんともわかんねえぞよ。』
平公はいくらか不安になつたといふ風で、『あまつ子にかゝるのはわりいぞよ。おめつちも、だから、もう上さん持てツて言ふんだ。』考へて、『大丈夫かな、來やしねえかえ、此處はまだ里に近いでな。』
『大丈夫だんべ。』
『でも、安心なんねえな。この向うの山越せや、大丈夫だがな。』
俄かに平公は不安心になつて來た。飛んでもねえ奴に入つて來られたとも思つた。平公は明るくなつて來た空とまだ餘り遲くない日射とを見た。幸ひに此處には仕事はもう澤山に溜つてゐなかつた。四日ほど前に嚊と二人で里に下りて、仕事したものを米と金とに代へて來た。
『天氣も上りさうだで、向うまで行かうかや?』
『これから?』
若い嚊は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、76−10]つて、
『でも、此處にゐちや、危ねえからな。』
『ぢや、おらつち一人行くべいか。』かう言つて常は立上つた。
『おめい、獨り行つたツて、おまはりが此處に來ちや駄目だアな。何アに好い。行くべい、行くべい。此處にや、もう用はねえだでな。』決心したやうに、『何アに、二里とちよつとだ。今、行けや、日のある中に向うへ行き着けるだ。』
で、平公は急いで出發の準備に取懸つた。山から山へと放浪して行くかれ等の生活は、いざと言へば極めて單純なものであつた。鍋、バケツ、鉈、鉞、鋸、さういふものも、箱に入れると、小さい包になつて了つた。樹に結びつけたテントを外して、夫れを小さくたゝんで、平公と若い嚊とはそれを適度にわけて負つた。
『氣の毒だつたな。』
かう何遍となく常公は言つた。
『何アに、何うせ、もう、明日か明後日は向うに行かうと思つてゐたんだ。』
雨はまた少し降つて來た。しかしかれ等は別にそれを苦にするといふでもなかつた。かれ等の立つた跡には、鉋屑と、竈と、燒火の跡とが殘つた。切り倒した木も縱横に散ばつてゐた。
かれ等が高原の草原から羊腸とした坂路にかゝる時には、それでも雨は晴れて、白い或は灰色の雲が渦まくやうに峯から峯へと湧き上つてゐた。雲の間からは、大きな深い紫色をした山が見えたりかくれたりしてゐた。名も知らない鳥が向うの山裾の深林の中で鳴いてゐた。
三
其處に三日ほどゐて、それから三人は又別の方へと移つて行つた。それでも常公は工夫になつて働いた時に貯めた金をまだいくらか持つてゐたので、金を出して、平公から米を分けて貰つた。
矢張、里に近いところでなければ、仕事をして、それを買つて貰ふことが出來なかつた。で、かれ等は前の山とは正反對の山の裾の處に來て、桐油を張つて五六日其處で暮した。秋はもういつかやつて來てゐた。山で取れるものには、初茸、松茸、しめじ、まひ茸などがあつた。しかしそれも時の間になくなつて、日が照つたり雨が降つたりしてゐる間に、朝晩は持つてゐた着物でも寒い位になつた。平公夫婦は、常公を山に置いては、さゝらだの木地だのを持つて里の方へ出かけて行つた。
ある日は大祭日か何かで、里では、國旗が學校や役場やその他の民家の軒にかゝげられて、酒に醉つて赤い顏をした人達が彼方此方を歩いてゐた。ある木地屋では、平公夫婦は酒や蕎麥を御馳走になつた。お金の澤山に取れた時には、かれ等は白鳥に一杯地酒を買つて、それを山に持つて來たりした。
常公はいつも獨りで別に桐油を樹間にかけた。かれは木地をつくるよりも、蜂を取つたり、岩魚を取つたりする方が得意で、岩魚は燒き串にさして、そして里へ持つて行つた。
『もう、冬が近づいた。國に歸るのももうぢきだ。』
かう言つて、平公は常公の桐油を訪ねた。この冬は是非嚊を持つやうに平公は勸めた。『一人で稼ぎに出るのと、二人で出るのとでは、大變な違ひだぞな。何しても二人だと樂みで好いだ。この冬に、うんと好いのをさがして、早く祝儀をする方が好い。』かう言ふかと思ふと、『でも、この冬は俺は樂しみがねえな。嚊のない時分には、一年一度國に歸るのが、何より樂しみだつたものだがなア。』
『でも、皆なに逢へるから、樂みでねえこともあんめい。』
『それはさうだがな。』
一年一度の同種族の會合、そこに集つて來る大勢の人々、彼方此方から持つて來るめづらしい御馳走、あの時の宴會の歡樂は、言葉にも言ひ盡すことが出來なかつた。大勢の若い娘達、それを其の日其の夜は何處に伴れて行つても差支なかつた。樹間に幾つとなくかけられた桐油小屋、バケツの中に一杯滿された酒、年寄も若者も一緒になつて賑はしく歌を唄つて躍つた。
彼處に五日、此處に三日といふやうにして、かれ等は次第に國の方へと近づきつゝ放浪して行つた。峯から峯、谷から谷、林から林と移つて行くかれ等は、ある宿泊地で、最初に、三人づれの同種族と一緒になつた。
老いた婦に若夫婦、その若夫婦は今年二つになる子供をつれてゐた。その群を最初常公が發見した。
『何うも、あそこに桐油があるかしら?』
『何處に……』
『そら、あの山の陰の林の中に。』
『あれやさうかしら?』
若い平公の嚊は、かう言つて始めは本當にしなかつたが、漸くそれは同じ種族の群であるといふことがわかつた。で、此方からも行けば向うからも來た。その群は始め十五人で、一昨年、遠い會津の山奧から南部の方へと入つて行つたが、昨年はたうとう國に歸ることが出來ず、日光の奧で年を迎へて、それから、上州から信州の方へと段々出て來たといふことであつた。艱難も多かつたらしく、その中のある群とは、會津でわかれ、南部でわかれ、最後に上州でわかれた。『今年は何うしてもな、一度、國に歸るべい思つてな。』かうその老婦は話した。
老婦は一つの位牌を肌身離さずに持つてゐた。それは一昨年同じく國を出て、途中で死に別れた一人息子の位牌であつた。老婦は涙ながらにその話をした。『會津から南部に行く途中だつたけな。急に、病氣になつてな、吐くやら反すやら、里のお醫者にもかゝる間もなくて、つい、死んで行つて了つたがな。平生丈夫ぢやつたで、こんなことがあらうとは夢にも思はなかつたで、俺ア、一時氣拔けのやうになつて了つたゞ。それでも、皆なは氣の毒だと言うて、えらく力になつて呉れしやつた。』かう言つた老婦の眼には、ある山から下りて行つた森に圍まれた寺や、本堂や、珠數を繰つた人の好ささうな老僧や、山の上の火葬の夜のさまなどが、今も歴々と映つて見えた。
『これに骨が入つてゐるのだよ。』
かう言つて老婦はその持つてゐる小さな瓶を平公と常公に見せた。
かれ等は何んな遠い山の中で死んでも、決してその屍を異郷に葬ることはしなかつた。かれ等はさういふ不幸に出會すと、山の上で、木を集めて、それを火葬にして、いつも骨を遠くその故郷へ持つて來て埋めた。そこにはかれ等の祖先がゐた。古い系統と古い歴史とを持つたかれ等の寺があつた。
『まだ、若いだんべ。』
『二十七だよ。』
『まだ、上さんも持たずか?』
『今度歸つたら、嚊でも持たせべい思つてゐたゞよ。』
『可哀想なことをしたよな。』
老婦は涙を流した。利益の多い遠征ではあつたが、またそれだけ艱難の多い旅であつた。老婦は木の多い山、産物の豐富な山、淳良な氣風の里の話をすると共に、危い崖、恐ろしい猛獸、凄しい山海嘯の話などをした。其地方では恐ろしいのは警官ではなくして自然そのものであつた。日光の山奧などには、いくら伐つても伐り盡せないほどの木材があつた。そこにある山奧の温泉は、川一面が湯で、上州でわかれた群の一人がその前の絶壁から落ちて怪我をした創傷を一日か二日で治したといふことがあつた。熊や猪などにも度々出會つた。
かれ等はしかしかうした長い遠征をも決して辛いとは思つてゐなかつた。幼い頃から親に連れられ、仲間に伴はれて、草を枕に、露を衾に平氣で過して來た習慣は、全くかれ等をして原始の自然に馴れ親しませた。それにかれ等の血には放浪の血が長い間の歴史を持つて流れてゐた。
『此處まで來れや、もう、國へ歸つたも同じだな。』
などと若い夫婦も言つた。夫婦はかなりに多く金を貯蓄して來た。かれ等も矢張、冬の會合のことを樂みにしてゐた。親にも逢へれば同胞にも逢へると思つてゐた。馴れてゐる故もあらうが、南部の山の險しいのに比べては、此方は平地のやうだなどと言つてゐた。
其處にかれ等は一週間ほどゐた。平公夫婦の毎日里の方へ下りて行くのに引替へて、遠くから來た方の人達は、多くは山で遊んで暮した。
平公夫婦の里に行つてゐる間に、ある日、里の人達らしい男が二人此方へとやつて來た。その時は別に何も言はずに歸つて行つたが、そのあくる日に、白い服を着て、劍を下げた人達が草鞋ばきで、二人三人までやつて來た。
『貴樣達は何處から來た。』
『…………』
『山の向うや此方でわるいことをしたのは、貴樣達だらう?』
『…………』
かれ等は一番多くかういふ人達を恐れた。そしてかういふ人達は、きまつて、かれ等に籍の所在地を聞いた。しかしかれ等はさういふものを何處にも持つてゐなかつた。強ひて詰問されると、かれ等はかれ等の頭領から持たせられた木地屋の古い證書の冩しのやうなものを出して見せた。それは七八百年も前の政廳から公に許可されたやうなもので、麗々しく昔の役人達の名と書判とがそこに見られた。全國の山林の木は伐つても差支ないといふやうな文句がそこに書かれてあつた。
白い服を着た人達も、要領を得ないかれ等種族を何うすることも出來なかつた。徳川幕府の潰れたのも、明治の維新になつたのも、京都から東京へ都が遷つたのも、日清戰役があつたのも、日露戰爭があつたのも、軍艦が出來たのも、飛行機が出來たのも、何も彼も知らないやうなかれ等の種族には、何を言つて聞かせても效がなかつた。後には、警官達も持餘して、唯一刻も早く、自分の受持つ管内からかれ等を立去らしめることをのみ心がけた。
『一刻も早く立去れ。』
『…………』
『わかつたか。』
『…………』
翌日は、其處を去つて、かれ等は別なところへと移つた。一しきり雨の時節が通り過ぎると、今度は秋の美しい晴れた日が毎日續いた。重なり合つた山は、くつきりと線を碧空に劃して、破濤のやうに連りわたつた山嶺は、遠く廣く展開されて見えた。木の葉は紅葉して、朝日夕日は美しくこれを照し、月は銀のやうな光をあたりに漂はせた。谷川の囁くやうな響は微かに下に下に聞えた。
鹿の鳴音が笛のやうに聞えた。
それは廣い高原のやうなところであつた。草藪と林と落葉松とが廣くつゞいて、熊笹が一面に生え茂つた。ある日、夕日が西の山陰に沈んだ頃、平公はふとその廣い野原を越して、誰か五六人一緒に此方にやつて來るのを見た。後に負つた荷物と、杖と、桐油とは、矢張その同じ種族のものであるといふことを思はせた。
『おーい。』
『おーい。』
呼び且つ答ふる聲がこだまに響いてきこえた。
四
一行は賑やかになつた。其處にも此處にもテントが張られて、若い娘や子供がバケツを下げて、水汲みにと谷川の方へ下りて行つた。後から來た群は
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