『もう大事ない。』
 愈々明日は出發と言ふので、其夜は其處でも此處でも酒宴が始まつた。若い男と若い娘とは彼方此方と戯れて歩いた。テントは山裾の林を賑やかにした。
 滯在なしの三日路の樂しい旅はやがてその翌日から始まつた。最初の日は雨、次の日はからりと晴れたが、思ひもかけないほどの寒さで、山の雪は既に近くかれ等の路に迫つて來てゐた。しかしかれ等の樂しい心を曇らせるものは何もなかつた。子供達まで、明日は國に歸れると言ふので勇み勇んで嶮しい高い山路を登つた。
 三日目の午後には、かれ等の部落の見えるある峠の上へと一行は近づきつゝあつた。足の達者なものは、我先にと山路を走つて、一散にその峠の上へと登つて行つた。三人四人五人、手を擧げて叫んでゐるのが下から仰いで見られた。誰ももうじつとしては居られなかつた。女達子供達も老人達も一散につづいて驅け上つた。歡呼の聲は一時峠の空氣を震はせた。かれ等の眼下には、白いテントが林から林へと一面に張られてあるのが見えた。



底本:「定本 花袋全集 第七巻」臨川書店
   1993(平成5)年10月10日復刻版発行
底本の親本:「定本 花袋全集 第七巻」内
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