つた老婦の眼には、ある山から下りて行つた森に圍まれた寺や、本堂や、珠數を繰つた人の好ささうな老僧や、山の上の火葬の夜のさまなどが、今も歴々と映つて見えた。
『これに骨が入つてゐるのだよ。』
 かう言つて老婦はその持つてゐる小さな瓶を平公と常公に見せた。
 かれ等は何んな遠い山の中で死んでも、決してその屍を異郷に葬ることはしなかつた。かれ等はさういふ不幸に出會すと、山の上で、木を集めて、それを火葬にして、いつも骨を遠くその故郷へ持つて來て埋めた。そこにはかれ等の祖先がゐた。古い系統と古い歴史とを持つたかれ等の寺があつた。
『まだ、若いだんべ。』
『二十七だよ。』
『まだ、上さんも持たずか?』
『今度歸つたら、嚊でも持たせべい思つてゐたゞよ。』
『可哀想なことをしたよな。』
 老婦は涙を流した。利益の多い遠征ではあつたが、またそれだけ艱難の多い旅であつた。老婦は木の多い山、産物の豐富な山、淳良な氣風の里の話をすると共に、危い崖、恐ろしい猛獸、凄しい山海嘯の話などをした。其地方では恐ろしいのは警官ではなくして自然そのものであつた。日光の山奧などには、いくら伐つても伐り盡せないほどの木材があつた。そこにある山奧の温泉は、川一面が湯で、上州でわかれた群の一人がその前の絶壁から落ちて怪我をした創傷を一日か二日で治したといふことがあつた。熊や猪などにも度々出會つた。
 かれ等はしかしかうした長い遠征をも決して辛いとは思つてゐなかつた。幼い頃から親に連れられ、仲間に伴はれて、草を枕に、露を衾に平氣で過して來た習慣は、全くかれ等をして原始の自然に馴れ親しませた。それにかれ等の血には放浪の血が長い間の歴史を持つて流れてゐた。
『此處まで來れや、もう、國へ歸つたも同じだな。』
 などと若い夫婦も言つた。夫婦はかなりに多く金を貯蓄して來た。かれ等も矢張、冬の會合のことを樂みにしてゐた。親にも逢へれば同胞にも逢へると思つてゐた。馴れてゐる故もあらうが、南部の山の險しいのに比べては、此方は平地のやうだなどと言つてゐた。
 其處にかれ等は一週間ほどゐた。平公夫婦の毎日里の方へ下りて行くのに引替へて、遠くから來た方の人達は、多くは山で遊んで暮した。
 平公夫婦の里に行つてゐる間に、ある日、里の人達らしい男が二人此方へとやつて來た。その時は別に何も言はずに歸つて行つたが、そのあくる日に、白い服を着て、劍を下げた人達が草鞋ばきで、二人三人までやつて來た。
『貴樣達は何處から來た。』
『…………』
『山の向うや此方でわるいことをしたのは、貴樣達だらう?』
『…………』
 かれ等は一番多くかういふ人達を恐れた。そしてかういふ人達は、きまつて、かれ等に籍の所在地を聞いた。しかしかれ等はさういふものを何處にも持つてゐなかつた。強ひて詰問されると、かれ等はかれ等の頭領から持たせられた木地屋の古い證書の冩しのやうなものを出して見せた。それは七八百年も前の政廳から公に許可されたやうなもので、麗々しく昔の役人達の名と書判とがそこに見られた。全國の山林の木は伐つても差支ないといふやうな文句がそこに書かれてあつた。
 白い服を着た人達も、要領を得ないかれ等種族を何うすることも出來なかつた。徳川幕府の潰れたのも、明治の維新になつたのも、京都から東京へ都が遷つたのも、日清戰役があつたのも、日露戰爭があつたのも、軍艦が出來たのも、飛行機が出來たのも、何も彼も知らないやうなかれ等の種族には、何を言つて聞かせても效がなかつた。後には、警官達も持餘して、唯一刻も早く、自分の受持つ管内からかれ等を立去らしめることをのみ心がけた。
『一刻も早く立去れ。』
『…………』
『わかつたか。』
『…………』
 翌日は、其處を去つて、かれ等は別なところへと移つた。一しきり雨の時節が通り過ぎると、今度は秋の美しい晴れた日が毎日續いた。重なり合つた山は、くつきりと線を碧空に劃して、破濤のやうに連りわたつた山嶺は、遠く廣く展開されて見えた。木の葉は紅葉して、朝日夕日は美しくこれを照し、月は銀のやうな光をあたりに漂はせた。谷川の囁くやうな響は微かに下に下に聞えた。
 鹿の鳴音が笛のやうに聞えた。
 それは廣い高原のやうなところであつた。草藪と林と落葉松とが廣くつゞいて、熊笹が一面に生え茂つた。ある日、夕日が西の山陰に沈んだ頃、平公はふとその廣い野原を越して、誰か五六人一緒に此方にやつて來るのを見た。後に負つた荷物と、杖と、桐油とは、矢張その同じ種族のものであるといふことを思はせた。
『おーい。』
『おーい。』
 呼び且つ答ふる聲がこだまに響いてきこえた。

         四

 一行は賑やかになつた。其處にも此處にもテントが張られて、若い娘や子供がバケツを下げて、水汲みにと谷川の方へ下りて行つた。後から來た群は
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