歸國
田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)※[#「者/火」、第3水準1−87−52、69−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足がふら/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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         一

 一行は樹立の深く生茂つた處から、岩の多い、勾配の高い折れ曲つた羊齒の路を喘ぎ喘ぎ登つて行つた。ちびと綽名をつけられた背の低い男が一番先に立つて、それから常公、政公、眇目の平公、子供を負つた女もあれば、木の根に縋り付いて呼吸をきらして登つて行く女もある。年寄もあれば、若い者もある。一行總て十五六人、誰も皆な重さうに荷物を負つて手には折つた木の枝を杖にしてゐた。
 十月の初めは、山にはもう霜が置いた。風も寒かつた。昨日の朝などは、温度が俄かに下つて、山の奧には白く雪が見え、谷から汲んで來たバケツの水は薄く氷つた。つく呼吸は朝の空氣を透して其處此處に白く見えた。かれ等は山から山へと長い間を越えて來たことを思つた。
 彼等は其處此處で一緒になつた。かれ等は初めから多人数ではなかつたのである。今から一月前には、眇目の平公とその嚊と常公とが一緒に歩いてゐた。かれ等は晝間は普通の人間と少しも變らぬやうにして里に出て、さゝらや椀の木地や蜂の巣などを賣つた。『さゝら入りまへんか。』かう言つて、かれ等は農家の軒から軒へと歩いた。それは大抵山に添つたり谷に臨んだりしてゐるやうな村里で、それから一二里と隔てた町や都會へは、かれ等は滅多に出て行かなかつた。老人が留守を守つてゐる農家、鷄犬の聲の穩かにきこえる村落、賣るものがなくなるとかれ等は平氣で乞食になつた。時に馬鈴薯の一桶や甘藷の一包を盜むこと位はかれ等は何とも思つてゐなかつた。
『また、山窩奴が來やがつたんべ。』
 村の人達は、常に馴れて知つてゐるので、別に怪しみもしなかつた。
 鋸、鉈、鉋、小刀、小鋏、さういふものをかれ等は皆な一人々々持つてゐた。それも普通里で大工が使ふやうな大きなものではなく、屈折自由な、それでゐて切味の非常に鋭利なものであつた。かれ等は賣るものがなくなると、官林であらうが、民有林であらうが、さういふことには頓着なく、自分に都合の好い木材を切り倒して、必要な部分だけを切り取つて、そしてさつさと山から山へと移つて行つた。
 かれ等は材料のあるところをよく知つてゐた。見事な竹で蔽はれてゐる谷、美しい樹木の青々と繁つてゐる谷、さういふところでかれ等は三日四日を費した。ある里に近い山では、男は宿泊地に殘つて、木地を拵へたりさゝらを造つたりしてゐる間に、女は二人三人揃つて、それを持つて、近いあたりの里を賣つて歩いた。
 かれ等の行く處には、小さな轆轤を店の傍に備へて、終日椀や盆の製造に忙殺されてゐる家などもあれば、下駄屋の看板をかゝげて、亭主がせつせと仕事場で鉋を使つてゐる家などもあつた。
『これや高けいや。』
『高いもんかな。山坂越えて骨折つて持つて來るだで。さうして呉れや、この前も、さうだつたでな。』
『お前ち等のは、元がいらねえだで、いくら安くつても間に合ふべい?』
 こんなことを笑ひながら言ふと、
『何うしてな、この頃ぢやな、お上が喧しいだで、とても駄目だな、皆な、元を出して買はねえぢや木の片一つありやしねえ。えらい時世だ。』
『うそ、こけ。』
『まア、それぢや、かうして置くべい。それなら好かんべ。また、來年、買つて貰ふだでな。好かんべ、それで……。』
『丁度にして置け。』
『丁度? それはひどいや。そんな眞似すれや、小言言はれるア。』
『誰に? お方にか?』
 かう言つて笑つて、『お方ア、山さゐるんか。』
『ゐねえし、もう。』
『露にぬれてもお方は山で待つてゐる! かな。』
『あほらしい。』
 女はかう言つて笑つた。汚ない扮裝をしてるけれど、中には色の白い髪の濃い女などもあつた。時には不思議にして、かれ等の生活や故郷などを根掘り葉掘り聞くものなどもあつた。『さうかな。先祖から代々さういふ事してゐるのかな。餘程ゐるのかな。仲間は千人も二千人も? ふん、そんなにゐるのかな。そして日本中を山から山へと股にかけて歩いてゐるんだな。面白いな。ふん、會津の方まで行くのか。そして故郷は何處だな。』
 しかし、男にしても女にしても、かれ等の群は、滅多にその生活や故郷や祖先を語らなかつた。かれ等は訊かれると、唯薄氣味わるく笑つてばかりゐた。それにかれ等に關しての傳説は、一層普通の民とかれ等との間を隔てた。里の人達は言つた。『あいつ等はそつとして置くに限るぞよ。生中、あいつ等のことを聞かう
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