ろ》えた。時雄も別れのしるしに、三人相並んで会食しようとしたのである。けれど芳子はどうしても食べたくないという。細君が説勧《ときすす》めても来ない。時雄は自身二階に上った。
東の窓を一枚明けたばかり、暗い一室には本やら、雑誌やら、着物やら、帯やら、罎《びん》やら、行李《こうり》やら、支那鞄《しなかばん》やらが足の踏《ふ》み度《ど》も無い程に散らばっていて、塵埃《ほこり》の香が夥《おびただ》しく鼻を衝《つ》く中に、芳子は眼を泣腫《なきはら》して荷物の整理を為ていた。三年前、青春の希望|湧《わ》くがごとき心を抱《いだ》いて東京に出て来た時のさまに比べて、何等の悲惨、何等の暗黒であろう。すぐれた作品一つ得ず、こうして田舎に帰る運命かと思うと、堪らなく悲しくならずにはいられまい。
「折角支度したから、食ったらどうです。もう暫くは一緒に飯も食べられんから」
「先生――」
と、芳子は泣出した。
時雄も胸を衝《つ》いた。師としての温情と責任とを尽したかと烈しく反省した。かれも泣きたいほど侘《わび》しくなった。光線の暗い一室、行李や書籍の散逸せる中に、恋せる女の帰国の涙、これを慰むる言葉も無かっ
前へ
次へ
全105ページ中97ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング