》の情と絶望の悶《もだえ》とがその胸を衝《つ》いた。かれは言うところを知らなかった。
「もう、止むを得んです」と時雄は言葉を続《つ》いで、「僕はこの恋に関係することが出来ません。いや、もう厭《いや》です。芳子を父親の監督に移したです」
 男は黙って坐っていた。蒼《あお》いその顔には肉の戦慄《せんりつ》が歴々《ありあり》と見えた。不図《ふと》、急に、辞儀をして、こうしてはいられぬという態度で、此処《ここ》を出て行った。

 午前十時頃、父親は芳子を伴うて来た。愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》今夜六時の神戸急行で帰国するので、大体の荷物は後から送って貰《もら》うとして、手廻の物だけ纒《まと》めて行こうというのであった。芳子は自分の二階に上って、そのまま荷物の整理に取懸った。
 時雄の胸は激してはおったが、以前よりは軽快であった。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思うと、言うに言われぬ侘《わび》しさを感ずるが、その恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠《すくな》くとも愉快であった。で、時雄は父親と寧《むし》ろ快活に種々なる物語に耽《ふ
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