。いや、既に一歩を進めているかも知れぬと思った。又一面にはこれほどその為めに尽力しているのに、その好意を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、情知らず、勝手にするが好いとまで激した。
時雄は胸の轟《とどろ》きを静める為め、月|朧《おぼろ》なる利根川の堤の上を散歩した。月が暈《かさ》を帯びた夜は冬ながらやや暖かく、土手下の家々の窓には平和な燈火が静かに輝いていた。川の上には薄い靄《もや》が懸って、おりおり通る船の艫《ろ》の音がギイと聞える。下流でおーいと渡しを呼ぶものがある。舟橋を渡る車の音がとどろに響いてそして又一時静かになる。時雄は土手を歩きながら種々のことを考えた。芳子のことよりは一層痛切に自己の家庭のさびしさということが胸を往来した。三十五六歳の男女の最も味《あじわ》うべき生活の苦痛、事業に対する煩悩《ぼんのう》、性慾より起る不満足等が凄《すさま》じい力でその胸を圧迫した。芳子はかれの為めに平凡なる生活の花でもあり又|糧《かて》でもあった。芳子の美しい力に由って、荒野の如《ごと》き胸に花咲き、錆《さ》び果てた鐘は再び鳴ろうとした。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された
前へ
次へ
全105ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング